“依存症”は自己責任なのか? 前川ほまれ最新作『セゾン・サンカンシオン』で描かれる、依存症患者が抱える寂しさ

小説・エッセイ

公開日:2021/4/14

セゾン・サンカンシオン
『セゾン・サンカンシオン』(前川ほまれ/ポプラ社)

 人は多かれ少なかれ、なにかに依存しながら生きているものだと思う。依存と表現するとなんだか病的に響くかもしれないけれど、なにかしらを心の拠り所にしているはずだ。その対象はタバコやお酒などの嗜好品だったり、友人や恋人といった“自分以外の誰か”だったりする。

 ただし、それが行き過ぎると、「依存症」という名前が付けられてしまう。そして、そんな依存症患者に対して、ときおり「意志が弱い」「自己責任だ」という批判も起こる。批判をする人たちは「自分が依存症になる可能性」を一切考慮していないのだろう。自分はそこまで弱くないから、依存症になんてならない。そう思っているのかもしれない。でも、本当にそうだろうか。

 小説家・前川ほまれさんの最新作『セゾン・サンカンシオン』(ポプラ社)を読んで、まず感じたのは、依存症はぼくらのすぐ隣に潜んでいるのではないか、ということだった。少なくともぼくは、「絶対に依存症にはならない」とは言い切れなくなった。

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 本作は依存症をテーマにした連作短編集である。第1章に登場するのは、アルコール依存症の母親に悩まされている千明だ。母親は閉鎖病棟に入院していることから、その症状の重さがわかる。しかし、このたび退院が決まった。とはいえ、すぐに日常生活に戻れるわけではない。そこで千明と母親が決めたのは、回復施設で生活することだった。

 東武東上線にある「夕霧台」という駅が最寄りのその施設の名は、セゾン・サンカンシオン。見た目は年季の入った、ただの民家である。しかし、そこはさまざまな依存症患者が集まり、回復を目指す場所。治療共同体だった。

 そこで千明は、ひとりの女性と出会う。塩塚美咲と名乗る彼女は、セゾン・サンカンシオンで生活指導員をしているという。千明は塩塚に案内されるがまま施設内へと足を踏み入れ、母親と同じアルコール依存症の女性・パピコと知り合うが――。

 第2章以降は、ギャンブル依存症の姉とそれを疎ましく思う弟や、万引き依存症の娘を持った父親の苦悩、薬物依存症の姉とそれを批判する妹など、さまざまな依存症のケースが描かれていく。それらのケースを通して、読者は依存症がどれだけ怖い病気なのかを知っていく。同時に前川さんは、依存症患者を見守る“家族”の苦しみも描く。

 本作に登場する“家族”は、その大半が偏見を持っている。なにかに依存するのはその人が弱いからだ――。それは怒りに変わり、患者自身にぶつけられてしまうこともある。でも、その家族のことを誰が責められるだろうか。彼らもまた、苦しめられているのだ。第1章の主人公である千明も、母親に対して冷たく当たる。散々迷惑をかけられ、うまく消化できずにいるからである。

 そんな千明に対し、塩塚は言う。

“人を依存症にするのは、快楽じゃないよ。心身の痛みや、それぞれが感じている生きづらさが原因で依存症になっていくの”

 この言葉を踏まえて読み進めていくと、一人ひとりの依存症患者が深い孤独を抱えていることが徐々に見えてくる。そう、“寂しさ”や“痛み”を紛らわせるために、なにかに依存してしまうのだ。

 誰にだって寂しさは訪れる。逃げ場のない孤独に苛まれる瞬間がある。だとするならば、誰もが依存症になり得るのではないか。それは決して他人事ではない。

 このように依存症についての理解と、家族の苦しみや葛藤に触れながらページをめくっていくと、終盤で思わぬ悲劇が描かれる。その一文を目にした瞬間、思わず「えっ!」と驚きの声が漏れてしまった。それはセゾン・サンカンシオンに入居しているひとりの女性と、その家族にまつわるエピソードで、ちょっとしたすれ違いが取り返しのつかない事態を招いてしまうのだ。そして、それは塩塚自身をも変えてしまう……。

 前川さんの作品はデビュー作からすべて読んできたが、一貫しているのは「人の営み」を描こうとしているところだろう。『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』では“特殊清掃”の世界を舞台に、訳ありの死を迎えた人とそれを受け入れる家族の姿を浮き彫りにした。続く『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』では犯罪者が抱える痛みを通して、生きることを活写した。そして本作。依存症という、ぼくらの日常からは“遠い世界”と思いがちなものをテーマに、そこで描いたのは、生きることの寂しさや哀しさだ。

 前川さんが扱うのは、いずれも重いテーマかもしれない。ただし、共通するのは“救い”があること。本作に収録されているエピローグはその極み。ラスト2行を読んだとき、涙が止まらなかった。何度失敗したって、人はやり直せる。人と人とはわかり合える。そこに込められていたのは、前川さんなりの“祈り”なのかもしれない。

文=五十嵐 大

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