容疑の否認で被害者は「人」としても破壊される――性暴力被害者の回顧録『私の名前を知って』という願い

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公開日:2021/5/7

私の名前を知って
『私の名前を知って』(シャネル・ミラー:著、押野素子:訳/河出書房新社)

 暴力が起きた時に女性が酔っていたら、まともに話を聞いてもらえないなんて、知らなかった。暴力が起きた時に男性が酔っていたら、みんなから同情されるなんて、知らなかった。

 これは『私の名前を知って』(シャネル・ミラー:著、押野素子:訳/河出書房新社)の一節。同書の著者は、米国のスタンフォード大学で2015年に起きた性暴力事件の被害者だ。この著者の心情は、日本で暮らす人が読んでも「そういう空気、日本の社会にある……」と感じるだろう。

 同事件の加害者は、最高で14年の禁錮刑の可能性があったが、言い渡された刑は禁固6カ月。あまりに軽い量刑に世論の反発も起こった。そして著者が法廷で加害者に向けて朗読した陳述書は、ニュースサイトに全文が掲載されたことで世界に拡散。称賛の声、性暴力被害から立ち直ろうとするサヴァイヴァーからの感謝の声、「レイプをする権利など、誰にも与えられていない」という怒りの声も集まった。

 著者は裁判が進むなかで、「もはやこれは、私を襲った男との闘いではなくなっていた。人間として認められるための闘いだ」と感じたと綴っている。この本は、被害者自らが描く事件の回顧録であるとともに、社会や司法制度が抱える差別・抑圧を告発し、それに挑む内容でもあるのだ。

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容疑の否認で被害者は「人」としても破壊される

 そしてこの回顧録が伝えるのは、性暴力の被害者が心身に強いられる負担は「事件の後」も非常に大きいということだ。

 著者は、自分の身に何が起きたのか飲み込めないまま、警察の聴取を受けた。被害状況の確認のため、服を脱いで全身を撮影され、検査された。告訴をするかの判断も即座に迫られた。そのあいだに加害者は15万ドルの保釈金を払い、逮捕から24時間と経たないうちに自由の身になっていた。

 そして長引く裁判は、被害者の彼女をより過酷な状況へと追いやっていった。

 著者は心に傷を負ったまま職場に復帰し、被害者であることを隠して仕事を続けるが、「病院に行くので」とウソをつき、裁判所に向かわねばならない日もあった。裁判のために休暇を取ったのに、それが急遽延期になることもあった。彼女はそうした「今まで通りの自分」と「被害者の自分」の二重生活に疲弊し、仕事も辞めることになった。

 また被告人がレイプ容疑を否認し、「被害者も行為を楽しんでいるように見えた」と証言したことで、著者は裁判制度で「無罪」と推定される被告人の言い分に異議を唱えなければならなかった。

 相手も楽しんでいた。彼女が訴えるような事実は存在しなかった。

 被告人がそう証言したことについて、著者は「彼は私を『体』として見ていたけれど、これからは『人』としての私を破壊しようとするだろう」と書いている。裁判における性暴力の存在を否定することは、相手の存在を二重に消し去ろうとする行為なのだ。

 そして裁判において被告人の弁護人は、彼女にふだんの飲酒の習慣や過去のパーティー出席の経験、飲みすぎて気を失った経験などを聞きだそうとした。彼女の性被害体験の固有性を消し去り、否定し、「パーティーで飲みすぎて記憶をなくし、性行為に及んだ」というステレオタイプ的なストーリーに落とし込もうとしたのだ。

 本書のタイトルの『私の名前を知って』は、このように性暴力の被害者の証言を否定し、その人格をも否定し、「存在しないもの」のように扱ってきた社会への異議が込められたものだ。なお彼女の陳述書が世に出たのは、#MeTooムーブメントが大きなうねりとなる1年以上も前のこと。彼女はその社会運動のパイオニアと言える存在だった。

 なお著者は、#MeTooムーブメントを「告白の雪崩」「ストーリーの津波」と呼ぶことについて、下のように本書で綴っている。

こうした比喩は、壊滅的かつ破滅的という点では正しかった。でも、自然災害と比較するのは間違っている。なぜなら、どれも自然ではなく、人間が作り出したものなのだから。「津波」と呼んでもいいけれど、一人ひとりの命が一滴であるという事実と、一つの波を作るのに、どれだけの水滴を必要としたのかを忘れないでほしい。
(『私の名前を知って』より)

 この社会の差別や抑圧に立ち向かう彼女の言葉には、強い怒りも込められているが、疑われ、見下され、沈黙を強いられ、孤独を感じてきた人たちへの大きな優しさにも満ちている。本書には「社会の変化はマラソン」であり、既存の権力構造がいかに巨大で根強いか、それを打破するのがどれほど無茶な望みか……ということも書かれていたが、だからこそ今は一人ひとりが自分の意識や行動を見直す必要がある――。そう気づかせてくれて、変化を促してくれる力がこの本にはあった。

文=古澤誠一郎

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