ハーバード大学の著名教授が切り込む、能力主義が引き起こす社会の「分断」

社会

公開日:2021/5/11

実力も運のうち 能力主義は正義か?
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル:著、鬼澤 忍:訳/早川書房)

 東大なんてのはな、やり方次第で簡単に入れる――。テレビドラマ『ドラゴン桜』で弁護士・桜木建二は生徒たちこう演説する。日本は学歴社会だ。大学受験で偏差値の高い大学に入れば、それが能力の証になり年収の高い職に就きやすい。だから多くの受験生は、多大なストレスと引き換えにランクの高い大学を目指して必死に勉強する。社会に出てからも安心はできない。日本企業も成果主義へ移行しつつあり、毎期の人事評価が昇給やボーナスに反映されていく。

 勉強のできる者がよい大学に入り、仕事のできる者が高い給料をもらう。一見平等で合理的なこの社会に、一石を投じるのが本書『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル:著、鬼澤 忍:訳/早川書房)だ。著者は2010年に発売した『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)が日本でも大ベストセラーになった、ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏。能力主義にひそむ問題点について、『これからの~』でも論じられた「正義」の観点からひもとく。

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東大生の親の半数は「世帯年収950万円以上」だからズルい?

「能力主義」へのよくある批判が、“機会の平等”が担保されていないという点だ。能力のある者が出世するのは結構だが、基準となる能力が環境に左右されるため不合理だという批判である。確かに、裕福な家庭に生まれるか、都会に生まれるか、周りが勉強する空気かどうかなどは、本人の能力に影響するだろう。典型的なのは、「東大生は親が裕福で塾や私立の学校に通わせられるから、東大に合格できた」という論だ。事実、東大生の親の半数以上が「世帯年収950万円以上」であることはよく知られている。

「東大生の親」問題による批判は、裏を返せば、“機会の平等”さえ確保できれば、能力によって学歴や収入が決まるのは不合理ではないということ。経済的に恵まれた家庭に生まれ、周囲も勉強に打ち込む環境で育てば、誰もが平等に大学へ入り、出世できるはず……いや、本当にそうだろうか? 大学受験を経験した身としては、この結論は直感に反している。果たして彼らは、「家が裕福だから」東大に合格できたのだろうか。本書のおもしろさは、“機会の平等”の先へ踏み込むところだ。

機会の平等が訪れたとき、その社会は正義にかなうか?

 筆者は、毎年数十人東大生を輩出する進学校で大学受験をした(断っておくが、偏差値が足りず東大は受験していない)。しかし、勉強ができる同級生たちは「家が裕福だから」だけでは説明がつかなかった。同じ教師から同じ授業を受け、家での勉強時間もそう変わらない。それでも、まるで敵わない相手がいた。容易に埋めることができない“才能の差”があるのだ。

 もし“機会の平等”を実現したとしても、神から与えられる“才能の差”を埋めることはできない。では、能力によって評価される「能力主義」は平等なのか? そして社会にとって“正義”といえるのか? 本書は、格差が広がり続けるアメリカ社会の現状や、過去の哲学者の論を交えながら、能力主義が引き起こす勝者と敗者の「分断」へと論を進めていく。能力主義は、勝者には自信とおごりを与える代わりに、敗者には自分が社会に認められていない感覚を与えるという。それは果たして、社会にとって良いことなのか。今の状況を変えることは、簡単ではない。まずできることは、本書の邦題をかみしめることだろう。

文=中川凌 (@ryo_nakagawa_7

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