川崎20人殺傷事件など、令和元年に起きた事件の背景を追った『ルポ川崎』著者による骨太なルポルタージュ

社会

公開日:2021/6/15

本記事には刺激的な表現が含まれます。ご了承の上お読みください。

令和元年のテロリズム
『令和元年のテロリズム』(磯部涼/新潮社)

 ライターの磯部涼氏が2017年に上梓し、第17回新潮ドキュメント賞の候補にもなった『ルポ川崎』(サイゾー)は大変な労作だった。少年犯罪が頻発し、ヘイトスピーチが横行し、治安が悪化の一途を辿っていた川崎市南部の生活に焦点を当て、過酷な生活環境に置かれた人々の日常を写し取った。

 川崎市(特に南部)には未だに深刻な問題が山積しているが、同書では地元仲間で結成されたラップグループ、BAD HOPの成功と活躍が強調されていた。『高校生ラップ選手権』や『フリースタイルダンジョン』といったテレビ番組のバトルで勝ち抜き、日本武道館でライブをやるまでになった彼らの存在は、一筋の光明だったと言える。

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〈川崎区で有名になりたきゃ/人殺すかラッパーになるかだ〉(「KAWASAKI DRIFT」)というリリックが示唆するように、『ルポ川崎』は、「成り上がり」を体現した彼らが英雄視されている状況を克明に描出していた。

 だからこそというべきか、磯部氏は、令和元年5月28日に川崎市登戸で起きた20人殺傷事件にいちはやく、敏感に反応した。磯部は自著が「川崎=治安が悪い」というイメージを増幅させた、という責任を感じてもいたのだろう。彼はこの事件以降、一連の殺傷事件を追うことになる。平成から令和への改元に際して、世間を震撼させた一連の凶悪事件たちを、だ。その記録が本書『令和元年のテロリズム』(新潮社)である。

 令和元年5月28日には先述の川崎殺傷事件、6月1日には元農林水産省事務次官長男殺害事件(以下、農水事件)、7月18日には京都アニメーション放火殺傷事件が立て続けに起こる。改元直前だが特筆に値するとして、平成31年4月19日に起こった東池袋自動車暴走死傷事故にも触れられている。

 最も紙幅を割いて論じられているのは農水事件である。というのも、川崎殺傷事件は犯人が事件後に自殺しており、犯行動機は不明なまま。京都アニメーション放火殺傷事件では、犯人自身が全身に90%のやけどを負っており、事件後しばらくは話すことも不可能だった。かろうじて、「京アニに小説をパクられた」という妄言めいた言葉を引き出せたのみだ(自動車暴走死傷事故については犯罪としての色合いの違いから割愛する)。

 つまり農水事件が基軸として選ばれたのは、加害者が裁判などで事細かに発言できた事件だからだろう。その農林事件は、東大法学部卒のエリート官僚である熊澤英昭が、息子の英一郎を包丁で殺害したという惨事。裁判の記録も残っているため、全貌の把握が比較的容易だったと推測される。

 中学生の頃から激しい家庭内暴力をふるっていた英一郎は、徐々に自室にひきこもるようになり、事件当日は隣接する小学校の運動会に対して「うるせぇな、ぶっ殺すぞ」と怒鳴り散らしていた。その言葉に父は過敏に反応したのだろう。

 英昭は4日前の川崎の事件を連想し、息子も罪のない小学生たちに危害を加えるかもしれないと危惧し、犯行に至ったという。英昭は英一郎の首などを包丁で多数回突き刺し、失血死させた。

 また同事件が特殊だったのは、加害者である英昭に同情や共感の声が多数寄せられたこと。一方、英一郎は被害者であるにもかかわらず、メディアでは批判や揶揄の対象にまでなっている。生活費を全額親から受け取りながらも横暴に振る舞っていた英一郎に、同情する声はほとんど聞こえてこなかった。

 また、英一郎が一時期ひとり暮らしをしていた家は、完全にゴミ屋敷と化していたという。ゴミを捨てろと英昭が注意すると逆ギレし、土下座して命乞いをしたら許してやると怒鳴る。結局、英一郎に蹴ったり殴られたりした母親はその日の夜、寝返りが打てないほどの痛みを感じていたという。英昭が裁判で頑なに正当防衛を主張したのは、こうした一連の暴力を受けてのことだろう。結局、英昭には懲役6年の実刑が科されることになった。

 事件に対して様々な予断や偏見があったことは想像に難くない。例えば、英一郎がオンラインゲームの『ドラゴンクエストX』に夢中で、病院に入院させられてもゲームができないと大騒ぎし、周囲を困惑させる。このゲームへの異常なまでの執着ぶりを、「いかにもひきこもりらしい」と断じる向きもあった。

 だが、精神科医の斎藤環氏によれば、部屋に籠ってネットやゲームに没頭しているひきこもりは少数派で、多くは「自分には娯楽を楽しむ資格はない」と思うらしい。磯部氏はこうしたステレオタイプに陥ることを周到に避けている。事件を安易で分かりやすい筋立てや物語に昇華せず、事件の背景を仔細かつ丁寧に描写しゆくのだ。そこに安直な善悪二元論は存在しない。

 ちなみに、作家でドキュメンタリー・ディレクターの森達也は、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(講談社文庫)という著書の中で、こう述べている。

 大きな事件や災害が起きたとき、この社会は集団化を強く求める。そしてこのときに集団内部で起きる現象の一つが、周囲の環境因子の簡略化や単純化だ。9.11後のブッシュ政権や同時代の小泉政権を振り返れば、その傾向は明らかだ。正義と悪。敵と味方。是と非。右と左。そして加害者と被害者。(中略)二項対立は概念だ。現実とは違う。現実は多面的で多層的で多重的だ。僕の中にも善と悪がある。あなたの中にもある。とても当たり前のこと。でも集団化が加速するとき、二項対立が前提になる。明らかに錯誤だ。多くの人はその矛盾に気づかない。立ち止まってちょっと振り返れば気づくのに、集団で走り始めていると立ち止まることもできなくなる。

 英昭は加害者であると同時に被害者でもあるが、元エリートの父を非難して溜飲を下げるのも、息子の横暴さを公にしてカタルシスを得るのも、等しく思慮に欠けているように思える。だから磯部氏は、簡単には二元化できない複雑な事例を複雑なまま書きつける。父と息子のどちらにも肩入れせず、事件の分かりにくさや曖昧さから目を背けず、淡々と事実を記述してゆく。実に誠実でまっとうな姿勢だと思う。

 磯部氏は、父と息子、どちらかに善悪のスティグマを押したりはしない。世界は複雑にできており、常に善と悪がせめぎあっていることを知悉しているからだ。善悪の狭間にあり、曖昧で宙づりにされた事象を二項対立の図式で断ずることはできない。決して思考停止することなく、愚直に検証を重ね、事件の奥にある実相をひとつひとつ丁寧に解きほぐしていく。それしか道はないのではないだろうか。本書を読んであらためてそう感じた。

文=土佐有明

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