松井玲奈のデビュー作『カモフラージュ』が文庫化! 胸に埋まったオレンジが運命の相手を示す、奇想あふれる書き下ろし短編も収録

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/26

カモフラージュ
『カモフラージュ』(松井玲奈/集英社文庫)

 2019年4月、松井玲奈さんが世に放ったデビュー作は、多くの読者に衝撃を与えた。役者の顔も持つ松井さんの初小説となれば、本人を重ね合わせた私小説を予想した人も多かっただろう。だが、蓋を開けてみれば、それは時にグロテスクで、時にフェティッシュな色とりどりの短編集だった。主人公の顔ぶれも、小学生男子、メイド喫茶の店員、結婚5年の夫婦などさまざま。共通項と言えば、『カモフラージュ』というタイトルどおり、主人公たちが本心を覆うヴェールをまとっている点。また、オムライス、桃、餃子など、どの短編にも食べ物が印象深く描かれている点だ。

 一読して驚かされるのは、著者の透徹したまなざしと鋭利な文体だ。例えば「ハンドメイド」。24歳の「私」は、上司の林田と誰にも言えない関係を結んでいる。林田に恋人がいることは知っているが、それでも誘いを受ければホテルに向かわずにいられない。早起きして弁当箱にオムライスを詰め、ホテルの一室で過ごす淡いひと時。だが、夢のような時間は一瞬で過ぎ去っていく。冷めたバターとケチャップがもたらす胸焼け。ひとり流し台で弁当箱を洗う夜の静けさ。色とりどりのビー玉に押しつぶされそうな夢。好きだからこそ自分の手で恋を葬り去ろうとする覚悟を、身を切るようなその痛みを、松井さんはつぶさに描き出していく。人間のありようをまっすぐ見つめ、奥底にあるものを丁寧に取り出す、その繊細な手さばきに見惚れずにいられない。

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 そんな『カモフラージュ』(集英社)が、このたび文庫化されることになった。しかも、書き下ろし短編「オレンジの片割れ」も新たに収録。この作品がまた、どこまでも切なく胸に沁みる。

 小学生の頃、奈津子は先生から「オレンジの片割れ」の話を聞いた。「胸の中には半分に切られたオレンジがあり、自分と切り口が重なり合う相手は世界に一人しかいない」──奈津子が右胸と左胸の間に指を差し込むと、先生の言葉どおり半分に切られたオレンジがずるりと出てくる。以来、奈津子はオレンジの片割れを探し続けるが、36歳になった今も運命の相手には出会えない。胸に埋まったオレンジは、すっかりみずみずしさを失ってしまっている。

 世の中にはオレンジの存在を信じない人もいる。仮にオレンジを持っていたとしても、切り口が合わなければふたりの仲はたちまち冷めてしまう。ならば、いっそオレンジなんて持たないほうが、苦しまずにすむのではないか。そう考えた奈津子は、自身の意志に基づき、ある行動に出る。

「胸に埋まったオレンジ」という奇想が目を引くが、ここで描かれるのは運命に導かれるまま生きるか、自分の手で人生を選び取るかという普遍的な問題だ。ほかの主人公同様、奈津子もまた、自身を「カモフラージュ」していた薄皮を脱ぎ捨て、新たな自分を生きてゆく。その姿に眩しさを感じるとともに、読んでいるこちらも励まされる。

 書き下ろしを加えたうえ、価格もサイズもコンパクトになった文庫版『カモフラージュ』。著者の経歴はさておき、とにかく唯一無二の鮮烈な短編を探している人に読んでほしい1冊だ。

文=野本由起

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