コロナ禍の一年を冷静に観察してきた小説家の日記。悪質なデマが流布した過去の悲劇から学ぶべきことは?

文芸・カルチャー

公開日:2021/6/9

東京ディストピア日記
『東京ディストピア日記』(桜庭一樹/河出書房新社)

 桜庭一樹氏『東京ディストピア日記』(河出書房新社)は、東京で暮らす小説家がコロナ禍と向きあった日々を日記形式で綴った本だ。2020年1月からの1年間に起きたコロナ関連のニュースやデータを冷静な筆致でくまなく網羅し、かつ、著者の日常に起きた細かな変化を振り返っている。歴史には、正史(国家による歴史)と、稗史(庶民の日々の歴史)があるとされるが、その両者に等しく光を当てているのが本書の特質だろう。

 正史では為政者のコロナ対策の失政ぶりが淡々と記述される。帰省の自粛を求める地方自治体と、GoToキャンペーンを進める政府のちぐはぐさ。あるいは、飲食店などに営業の自粛や時間短縮を求めながら、金銭的な補償はしないという整合性のなさ。緊急事態宣言の発令と解除を繰り返す政府の一挙手一投足に振り回されたのは、著者だけではあるまい。

 一方、稗史はと言うと、桜庭氏がコロナ以前/以降で変わってしまったと思う風景に、敏感に反応し、日記に綴っている。桜庭氏が住むマンションのエレベーターでは住民同士、気軽に挨拶や雑談を交わしていたのが、コロナ以降では密室空間での飛沫が気になり、桜庭氏は挨拶を躊躇してしまう。そんな中でほっとするのは、贔屓にしている馴染みの喫茶店に寄った時。店員との何気ないやりとりに心が安らいだと桜庭氏は記す。

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 コロナ対策の内容については、海外のものも含めて仔細に検証されている。人々は論理的/理性的判断で根拠ある推測に基づく一派と、強引に現実を曲げ声高に叫ぶ一派に分けられる、と著者はいう。いわゆる「分断」である。

 例えば、前者を代表するのがニューヨーク州知事。論拠のある推測をもとに、最悪の状態でも皆が生き残る方策を練り、感染者数を最低限に抑えた。ただこれはかなり珍しいケースだ。桜庭氏が淡々と記す各国首脳のコロナ対策に関する態度や発言を読むと、状況は絶望的に見え、無力感に打ちひしがれてしまう。

 例えば、米国のトランプ大統領は頑なにマスクをつけることを拒否し、結果、2020年10月2日にTwitterでコロナに感染したことを発表した。彼は「紫外線や抗マラリア薬がコロナを防ぐ」という、エビデンスのないトンデモな論も展開していた(本書より)。また、ベラルーシの大統領は「サウナに入りウォッカを飲めば治る」と、苦笑する気にもなれない珍言を発する(2020年4月5日の日記より)。

 また、昨年ニュースでも再三報道されていたが、イランでは酒を飲むとウイルスを死滅させられるというデマが流れた。その結果、安価な酒を求めてメタノール(燃料として使われる工業用のアルコール)入りの飲料を飲んで800名以上が亡くなったという(2020年8月30日の日記より)。

 そんな中、桜庭氏は〈信じたいことを、証拠なしに強引に信じ、大声で言い張りづづける〉のではなく、〈根拠ある推測をもとに論理的に判断できる人間〉であろうとする。だが、日々ストレスを感じながら生きていると、無意識に前者の思考に引っ張られそうになる、とも漏らす。そんな桜庭氏は、ドイツのメルケル首相の演説を目の当たりにして、おおいに感銘を受ける。

 メルケル首相は珍しく感情を剥き出しにし、〈現在の感染の拡大は、我々の努力が足りなかったからだ〉と力説。旧東ドイツに生まれ、大学で物理学を専攻した首相は〈私は科学による啓蒙の力を信じている。啓蒙主義(迷信を信じず、科学的に合理的に考えること)こそがヨーロッパの文明の礎なのだ〉と言い放つ。彼女の毅然とした態度に勇気づけられた人も、多かったのではないか。

 また、インターネットでの情報発信が簡便になった反面、急速にデマが広まりやすくなっているのも事実だ。そこで昨年2月に、WHO(世界保健機関)のデジタル部門責任者はFacebook社などと会合を開き、科学的根拠を欠く情報の拡散防止に協力を求めた。

 更に、FacebookやTwitterはWHOと協議した結果、コロナについて検索するとWHOなどの公的機関から発信された情報が上位にくるように設定した。SNSに日々ポストされる文章に対しても、第三者機関によるファクトチェックを強化しているという。

 このパンデミックに打ち勝つためには、事実に基づく合理的行動を絶え間なく積み重ねてゆくしかない。それが、桜庭氏が本書でひとまず辿り着いた結論である。そして、WHOのコロナ対策は「歴史は繰り返す」ことを避けるための有意義で勇気ある第一歩だと言える。コロナ関連の失政ばかりが目立つ昨今だが、こうした地味で地道な努力が実を結び、平穏な日常がかえってくることを願ってやまない。

文=土佐有明

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