音信不通の親友を追って単身カンボジアへ。独裁政権の影におびえながらサバイブする主人公の運命は――!?

文芸・カルチャー

更新日:2021/7/19

インドラネット
『インドラネット』(桐野夏生/KADOKAWA)

 小説家の桐野夏生氏は日本文学界の至宝である。84年にデビューした彼女がこれまでに受賞したのは、直木三十五賞、紫綬褒賞、泉鏡花賞、谷崎潤一郎賞、江戸川乱歩賞、婦人公論文芸賞、紫式部文学賞、島清恋愛文学賞、読売文学賞、日本推理作家協会賞。無論、受賞歴が作品の質を担保するとは限らないが、毎回、この内容なら獲って当然と読者や賞の審査員に思わせてきたのだから、大器なのは間違いない。

 そんな桐野夏生氏の最新小説が『インドラネット』(KADOKAWA)。過去の桐野作品との違いは、この物語の主人公・八目晃がどうしようもないダメ人間であるところ。25歳の会社員である八目は、非正規雇用で給与も安く、これといった趣味もなし。休日にはダラダラとゲームに興じるだけで、友達や恋人もいない。その上、会社の女性社員へのセクハラを告発される、たちの悪いミソジニストでもある。

 それでも八目がなんとかやってこられたのは、学生時代に野々宮空知という親友が近くにいてくれたからだ。容姿端麗で頭脳明晰、カリスマ性すら感じさせる空知が自分の身近にいてくれたことで、八目は自分が底上げされたような気分になれたのだろう。

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 その空知は美大を中退してから海外に渡ったのだが、その後は家族や友人とも完全に音信不通になっている。空知の父の葬儀で聞いたところによれば、空知はカンボジアに滞在していたが今は行方知れずだという。また、空知の姉も妹も同様、海外に渡航したのち行方不明になっているらしい。そこに、葬儀で会った男性から依頼が舞い込む。渡航費や生活費は保証するから、カンボジアで空知の消息を突き止め、彼経由で姉や妹の行方を突き止めてほしい、というのだ。

 しかし、カンボジアで待っていたのはハプニングの連続だった。初めての海外渡航に怖じる八目は、飛行機で隣だった自称バックパッカーの女性に格安のドミトリーを紹介される。だが、ドミトリーに着いて早々に盗難やぼったくりの被害に遭い、やがてパスポートもとりあげられる。世間知らずというか調査不足というか、現地のマナーを知らないために酷い目に遭い続けてしまうのだ。

 英語もろくに話せなかった八目だが、いくつかの修羅場を乗り越え、劣悪と感じていたカンボジアの環境にも次第に慣れてくる。ドミトリーに日本語が話せる老女がいることもあり、ドミトリーの仕事などを手伝い報酬を得ることに。その辺りから、姉や妹の目撃情報を入手するようになり、本格的に捜査に乗り出す。

 誰から見てもダメ男だった八目は、この頃には肉体的にも精神的にもすっかり逞しくなった。もがきながらも一歩ずつ着実に成長してゆく彼に、いたく感情移入する読者も多いのではないか。つまり、本作は上質なミステリでありながら、ひとりの青年の成長譚としてもとれる作品なのである。

 果たして八目は3きょうだいと会えたのか? 彼ら/彼女らが現在置かれている境遇とは? そして、八目の親友だった空知はどこで何をしているのか? こここそが、本書の最大のヤマ場である。ネタバレは避けておくので、実際に読んでその真相を確かめていただきたい。

 なお、3きょうだいの居場所を探して真相に迫ろうとすると、そこには必ず独裁政権の影がチラつく。30年前に内戦が終焉したカンボジアは、一党独裁化が進みつつあることで知られている。36年にわたって首相を務めてきたフン・セン氏のもと、国民の監視や反対勢力の弾圧が進んでいるのだ。物語は、この政権も巻き込んで展開される。

 昨今、若い作家に対して「描かれる世界が狭い」という批判が、年長の評論家や読者から寄せられることがあるが、本作はそうした声に対する回答にもなる。ごく普通の青年の奮闘と国家レベルの巨悪があいまみえる本書は、広大な世界を隅々まで描き切った重厚長大な小説だからだ。

 大御所と認識される現在のポジションに決して甘んじることなく、過去作を更新せんとしてきた桐野氏。本書は、未踏の境地に足を踏み入れた彼女の新たなる代表作だと言っていいだろう。

文=土佐有明

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