『新世紀エヴァンゲリオン』の作風の変化は、安野モヨコ氏との結婚が影響!? 庵野秀明監督が作品に託したメッセージとは

文芸・カルチャー

公開日:2021/8/7

シン・エヴァンゲリオン論
『シン・エヴァンゲリオン論』(藤田直哉/河出書房新社)

 1995年にテレビで放映されたのち、映画で「旧劇場版」と「新劇場版」が上映され、今年完結を迎えた『新世紀エヴァンゲリオン(以下、エヴァ)』は、ロボットやヒーロー/ヒロインが主役のアニメとしては従来と毛色の違う、異物感に満ちた作品だった。SF、心理学、哲学、宗教学、聖書などを引用/参照した設定は、熱心なファンにとって読み解き甲斐があったため、謎本や考察本が多数出版された。ただし、『シン・ゴジラ論』などの著作もある批評家の藤田直哉氏の『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)は、そうした本とは根本的に性質の異なる良書である。

『エヴァ』が熱狂的に支持された要因のひとつに、視聴者がエヴァのパイロットである14才の主人公=碇シンジと自らを重ねて見たことが挙げられる。内向的で他者との接触が苦手、かつ親子関係でトラウマを抱えたシンジを見た視聴者の多くが、「シンジ君は僕だ!」と感じたのだ。藤田氏もそのひとりであり、『エヴァ』が庵野秀明監督による私小説的な性質を持つことを指摘し、その作家性を太宰治と重ねて語っている。

 庵野秀明は自他ともに認める「重度のオタク」だが、劇中やインタビューでは「オタク的なメンタリティ」を痛烈に批判してきた。旧劇場版の『エヴァ』では、ネット上に蔓延っていた庵野への罵詈雑言や殺害予告をスクリーンに映し、虚構の物語に没入する人たちを批判的に描いてきたのはよく知られるところだ。

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 藤田氏も指摘しているが、『エヴァ』の背景には、二次元に没入する人たちに対する「現実に帰れ」という庵野氏からのメッセージがあった。それは自分に対する戒めでもあったのだろう。シンジらが暮らす第3新東京市は「人の作り出した」「快楽を満足させるため」「外界から逃げ込む臆病者」の街として設定されているが、藤田氏が明示する通り、これは『エヴァ』をはじめとするアニメ世界のメタファーに他ならない。

 藤田氏は、庵野氏のクリエイターとしての軌跡を追うことで、その変化や成長を辿り直すことができると説き、『エヴァ』以外の庵野監督の仕事にも言及している。そして、庵野氏が漫画家の安野モヨコ氏と結婚して以降、人間としても制作者としても、着実に変わっていったと考察する。孫引きになるが、藤田氏が庵野氏のインタビューから抜粋した箇所に触れよう。

 嫁さんの漫画の凄いところは、マンガを現実からの逃避場所にしていないところなんですよ。(中略)嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いてくるマンガなんですよ。(中略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。(安野モヨコ『監督不行届』)

 安野モヨコ氏と結婚したことにより、異質な他者と手探りで共同生活をしてゆくという、いわゆるオタクたちが避けがちだったことを、庵野氏は実際に経験した。新劇場版『エヴァ』の作風にその影響が感じられる 。妻と暮らすようになって極端な偏食をやめたこと、取材で妻と行った山形で山菜採りに没頭したこと、鎌倉で暮らすことで土と接する機会が増えたことなどを、庵野氏はインタビューで語っている。

「彼女に心底感謝している」—―庵野氏は縷々そう述べている。確かに庵野氏は変わった。しかも、「オタク的感性を捨てることなく大人になった」と藤田氏は指摘する。実際、その変化は新劇場版に如実に表れている。具体的にはキャラクターが皆、優しくなったことを藤田氏は記している。友達のためにお弁当を作ったり、愛情の証として手を繋いだりするシーンなどがその象徴だろう。人間的な感情を持たないパイロットの綾波レイが、村で田植えを手伝うなどのコミカルな展開もあり、その牧歌的なムードを「まるでDASH村(笑)」と言った論者もいた。

 制作者たちの発言をくまなく調べあげ、実証的に論が進められている本書。これを1冊にまとめるのは、おそろしく地味で地道な作業が必要だったはずだ。だが、その真摯な筆さばきがあってこそ、『エヴァ』の本質を射抜くことができたのだと思う。独善的な「私語り」を(あえて)抑制した本書は、バランス感覚に長けた、射程の長い本だと言えるだろう。筆者は本書を読んで、もう一度映画館に『エヴァ』の完結編を観に行くことにした。

文=土佐有明

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