死にかけた世界にひとり生き残った女性を描く、 森泉岳土の静謐な漫画作品『アスリープ』

マンガ

公開日:2021/9/19

アスリープ
『アスリープ』(森泉岳土/青土社)

『アスリープ』(森泉岳土/青土社)は、鈍色を基調とした、静かな佇まいの大判漫画作品である。掠れたような独特な線で描かれる絵は、下書きされた線に沿って水を含ませた筆で描き、そこへ墨を落とし、細かい部分は割り箸や爪楊枝を用いて描いていくという変わった技法が駆使されている。

 タイトルの「アスリープ」とは「asleep……眠って ぼんやりして」という形容詞だ。例えば「fall asleep」になると「寝入る」という意味になる(学研『パーソナル英和・和英辞典』より)。形容詞というのは言葉を飾るものだ。ということは、このタイトルは何へかかり、どんな意味を付加するのだろう?

(『アスリープ』の紙の本は全ページに特殊インクが施されているため、本記事で紹介している中面ページの色合いとは若干異なります。)

 扉を開くと冒頭にはサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』のセリフが引用されている。ゴドーがやって来るのを待つ2人の男、ウラジーミルとエストラゴンが主役の舞台は「不条理劇の傑作」といわれる。物語はほとんど進まず、舞台セットは1本の木だけ。二幕ある物語はどちらも同じような話を繰り返すが、連続していると思われた日常がある地点から唐突に不連続であるかもしれない展開を見せ、タイトルになっているゴドーに至っては何者であるのかわからないまま、一切登場せず幕となる。

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 そんな『ゴドーを待ちながら』へ思いを馳せ、『アスリープ』の物語は静かに始まる。舞台は「死にかけている世界」だ。かつて大都会だった街は荒廃し、そこにはチタルという女性がひとり取り残されている。物語の背景は詳しく語られないが、林立するビルはかつての仲間の墓標であり、崩れていく街のあちこちにチタルと縁あった人たちとの思い出が刻まれている。その墓場のような都市を、過去の思い出を抱えチタルは彷徨する。過去と現在が混濁し、未来だけがない、と毎夜無力感に襲われるチタルは、風の吹かない夜に火を熾す。自分の存在を確かめるように、誰かに自分の存在を知らしめるように、そして生きる意味を問いかけるように――

 多少の悩みや後悔を抱えつつも、健康で、やるべきことのある人は、昨日があって今日があり、何事もなく明日はやって来ると思っている。しかし日常というのはかなり危ういバランスの上に成り立っているものであり、盤石に自分を支えていると思っていた床板を踏み抜いてしまうと、世界が一変してしまう。そのことは2019年末からの新型コロナウイルスの蔓延によって多くの人が経験し、今なお先の見えない今日を生きている。

 不確かな未来について、哲学者のルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない」と書いた。作家の村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「人間の行動の多くは、自分がこの先もずっと生きつづけるという前提から発しているものなのであって、その前提をとり去ってしまうと、あとにはほとんど何も残らないのだ」と書いている。でも、本当にそうだろうか?

 死を待つだけのやるせない日々を送るチタルであったが、ある日変化が訪れ、明日への準備を始める。深い眠りから覚めた朝、太陽は昨日と変わらずに昇るだろう。また自分が生き続けることがたとえ叶わなくとも、選び取った生き方や行動によって、不条理に満ちた世界と未来は変わっていく。この物語を最後まで読み終えたあなたは、アスリープの本当の意味を、また希望とは何かを理解することになる。

文=成田全(ナリタタモツ)

(C)森泉岳土/青土社

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