母親だから当たり前? “フツウの母親”って何? 「~らしく」や「普通はこう」に縛られない生き方とは

マンガ

更新日:2021/9/29

母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか
『母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか』(龍たまこ/KADOKAWA)

 女らしく、男らしく、母親らしく、父親らしく……、とは一体なんなのだろうか。これほど暴力的で、ナンセンスな言葉もないと常々思う。人の得手不得手や好みは、性別や役割で決まるわけではない。なのに、「○○らしく」や「普通はこう」といった言葉で、他者に対しても自分に対しても、「らしさ」を押し付けてしまう。たいてい、無自覚にである。無自覚な言葉の暴力だと私は思う。

advertisement

『母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか』(龍たまこ/KADOKAWA)は、そんな「らしさ」や「普通」と戦う物語である。育児マンガではあるものの、育児をしたことがない人でも、「らしさ」に苦しんだことのある人には何かしら響くものがあるはずだ。

 本作の主人公あかりは、夫の平太と2歳の未来と暮らしている。

 ……と、聞いて、どんな家庭を想像しただろうか? 多くが、夫の平太がスーツを着て仕事カバンを持ち、妻のあかりがエプロンでもして子どもを抱いている絵を思い浮かべなかっただろうか? 少なくとも、私はつい、そういう絵を想像してしまう。そうと決まっているわけがない、家庭によってそれぞれだ、とわかっていても、無意識に染みついているステレオタイプな“家庭”の絵である。正直悔しい。これまでの成長の過程で触れてきたものが、自分の中に「普通はこう」を形作ってしまっている。こうした積み重ねが、無自覚に「○○らしく」などの押し付けを生む。そこにせめて自覚的でありたい、と思っている。

 さて、話は戻るが、あかりはある日、夫側の義両親と、敷地内同居をすることになる。家は独立しているものの、敷地内の隣同士。スープのさめない距離どころか、揚げ物すらカラッとしたまま持っていけるほどには近い。義両親は典型的な“昭和の夫婦”であり、父親は口を開けば「男たるもの云々」、母親は3歩下がって家事育児。その形こそが家族のあるべき姿であり、「男らしく」「母親らしく」することが幸せな家庭の秘訣だと信じて疑わない。

母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか p.16

 一方で、あかりと平太は一応あかりが専業主婦で、平太がサラリーマンなわけだが、実際にはあかりは家事が苦手、平太はガツガツ働き一家を支えて「男らしく」するのが苦手。ごまかしごまかし生きているものの、あかりは敷地内の距離で義母から家事を監視されている感覚に次第に息が詰まり、平太は平太で仕事の重圧に耐えかねて、ついにうつ病になってしまう。

母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか p.32

 ここからが酷い。この期に及んで義両親は「男らしくしないからうつ病なんかになるんだ」「(家事をしないあかりが)平太に負担をかけていたんじゃないかしら」などと責め立てる始末。正直読んでいてめちゃくちゃ腹が立つ。

母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか p.100

 こうしたトラブルを乗り越え、自分たちの家庭にとって、一番いい形を探っていくのが『母親だから当たり前? フツウの母親ってなんですか』だ。

 義両親の「らしさの押し付け」のオンパレードに読みながら腹を立てながらも、彼らの時代はそれが“世の中の正解”で、その形を守ることでここまで人生がうまくいってきたというのもわかる。また、今の時代でも、そのやり方でうまくいっている家庭も当然あるだろう。それがしっくりくる人は、それでいい。専業主夫がいてもいいし、共働きがいてもいいし、もちろん専業主婦がいたっていい。生き方の正解は、人それぞれまったく違うのだから。

 逆に、本作を読んで、義両親のほうに共感し、あかりたちに腹を立てる人もいるかもしれない。それはもしかしたら、「これまでの自分の生き方」が否定されたように感じたからではないだろうか。でも、他人が自分と違う生き方をしようと、イコール自分の生き方が否定されることにはならない。この世界に「普通」なんてものは、本当は存在しないのだから。

 世の中にはまだまだあまりに、「○○らしさ」が多すぎて、ああしろこうしろ、とうるさいけれど、自由に楽しく生きたい生き方をして、何が悪いのか。好きなこと、嫌いなこと、苦手なこと、やりたいこと、これらは性別や役割で決まるものではない。ましてや他人にそれを押し付ける権利なんて誰にもない。自分が心地よいと感じる生き方こそが、自分だけの正解なのだ。

文=朝井麻由美

あわせて読みたい