何度読んでも、沁みる――不器用でまっすぐな50歳男女の静かに滾(たぎ)るリアルな恋を描く、朝倉かすみ『平場の月』

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/26

平場の月
『平場の月』(朝倉かすみ/光文社)

 映画化が決定したことでも話題を呼んでいる、朝倉かすみの山本周五郎賞受賞作『平場の月』(光文社)がついに文庫化された。

「大人の『世界の中心で、愛をさけぶ』をやってみたかった」と著者本人が語っているとおり、本作は埼玉の朝霞、新座、志木あたりを舞台にした50歳男女の恋愛小説で、女性側が亡くなることは物語の冒頭でも明かされている。病院を検査で訪れた際、売店で働く中学の同級生・須藤葉子に再会した、青砥健将。互いにバツイチの二人は少しずつ距離を縮めていくのだが、やがて須藤のほうにも身体に不調が見つかって……とあらすじをわかりやすくまとめることは簡単なのだけど、きれいな言葉でととのえていくたび、本作で大切に描かれていることがぽろぽろとこぼれ落ちてしまうような心地がする。

 再会した日、須藤は青砥に「景気づけ合いっこしない?」と提案をする。〈どうってことない話をして、そのとき、その場しのぎでも『ちょうどよくしあわせ』になって、おたがいの屈託をこっそり逃すやつ〉をときどきやろう、と。要するに、互助会である。ともにバツイチで、配偶者との別れにもかなりの屈託を抱えたふたりが、知り合いの目がそこらじゅうで光る地元で、どうにか明日も生き延びていくための。

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 そうして、誰かに話しておきたかった、けれど誰にでもいえることではない自分の暗部を打ち明け合いながら、二人は、少しずつ、じっくり、信頼関係を醸成していく。その関係を、当初はどこにも着地させるつもりのなかった青砥だけれど、二人が唯一共有している思い出が中学3年生のとき、青砥が須藤に告白したことであるのだから、そう簡単にわりきれるはずもない。中学時代、青砥が須藤に抱いていた「太い」という印象――決して太っているという意味ではなく、誰に依ることもなく、押しても引いてもびくともせず、頑固に不器用に自分を貫こうとするその姿が、今も変わっていないからこそ、青砥は須藤を大切に想うのを止められない。検査結果に異状がなかった自分とはちがい、大腸がんの告知を須藤が受けてしまってからは、いっそう、そばにいて支えてやりたいという想いが募る。

〈だれにどんな助けを求めるのかはわたしが決めたいんだ。(略)決められるうちは、わたしが決めたいんだよ〉という須藤に、手を差し伸べるのはなかなか、むずかしい。青砥は須藤のためなら残りの人生全部支えてもいいくらいの気持ちでいるのに、療養のためにつかのまの同居は受け入れても、須藤に、どちらかの家を引き払うという発想はない。くわえて須藤は、窮状をどこか自業自得だと思っているふしがある。身から出た錆、と口にする彼女に青砥がもどかしさを覚えながら〈それを言っちゃぁ、思う壺だ〉〈だれの?〉〈おまえを引きずり込もうとするやつ。おまえを縛り付けたいやつ〉とやりとりする場面は、何度読んでも、沁みる。不器用な青砥の優しさが、それが須藤の望んでいるものでなかったとしても、まっすぐに注がれる愛情が、痛々しいほど伝わってくるから、二人の幸せを願わずにはいられない。

 10代の頃からひとりで生きていくと決めていた須藤は、青砥に出会って何を思っただろう。最後に、青砥へ向けられた言葉は、どんな想いで発したのだろう。平坦で、ありふれた、平場で生まれた二人の感情の渦を思うと、簡単に「泣ける」とはいえない。ただ、再会した日「いかにもわたしは須藤だが、それがなにか」という顔をした彼女と、彼女のために花を選ぼうとして、しかし立ち尽くす青砥の姿が、脳裏にいつまでも余韻となって残り続ける。

文=立花もも

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