車いすユーザーの母がコロナ禍に生死をさまよう大手術! そしてばあちゃんがタイムスリップ…!? 「もうあかんわ」な中で忘れてはいけないものとは

文芸・カルチャー

公開日:2021/11/30

もうあかんわ日記
『もうあかんわ日記』(岸田奈美/ライツ社)

 人のうえに流れていく時間は、しんどさも、かなしさも、くやしさも、それを“あのとき”に変えてくれる。渦中には巡らせることのできなかった思いや存在していた真実を気づかせてくれることもある。車いすユーザーの母、ダウン症で知的障害のある弟、中学生のとき、急逝した父――。岸田一家の日々のなかにあった出来事を、笑いと涙とツッコミで読む人の元気に変えた自伝的エッセイ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(小学館)は、“たいへん”が、“あのとき”に変貌していた地点で書かれていた。

 だが今回は違う。著者がこの本を書いたのは、まさに“たいへん”のさなか。コロナ禍のなか、母が病に罹り、生死をさまよう大手術をし、突然、祖父が亡くなり、もの忘れが出てきたなぁと思っていた祖母が一気にタイムスリップ。そのヤバさに引きずられるようにしてダウン症の弟もヤバいことに……。

“たいへん”な出来事はなぜだか重なるということは、人生の摂理としてあるような気がするけれど、岸田さんひとりの肩にいきなりのしかかってきたのは、人があまり経験しないような“たいへん!”のオンパレード。そんな日々、37日間の記録が綴られているのが、『もうあかんわ日記』(岸田奈美/ライツ社)である。

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 かのチャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言った。
 わたしことナミップリンは、「人生は、ひとり抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」と言いたい。

「ただ、笑ってほしい。悲劇を喜劇にする一発逆転のチャンスがほしい」と、ブログサービス「note」で日々綴られていった日記は、“ちょっと、聞いてよー!”と、まるで岸田さんが目の前で喋っているような温度とスピード感に溢れている。

 すべての記憶が1時間もあればオールリセットされ、途方に暮れることばかりしてしまうばあちゃんとの格闘、そんなばあちゃんの突然のヒートアップに巻き込まれ、怒られなくてもいいことで怒られ、心が不安定になっていく弟、ばあちゃんに追い回され、おしっこをまき散らし、応戦する犬2匹、ベランダには厄介な珍客まで住み着いて……。

 次から次へと起きるトラブルに、“いったいどうなっちゃうんだろう?”と、ひやひやしつつも、どこか安心感を持って読めるのは、「悲劇を語るうえで、それを呪いにはしない」という岸田さんの確固たる軸があるからだろう。読んでいてつらいものや自分に置き換えたときに責められるように感じてしまう言葉は一切、存在しない。それが岸田奈美という作家の唯一無二の持ち味、そして凄さなのだと思う。

『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』では、そのタイトルの意味が違う方向へとひとり歩きしてしまい、“素晴らしい家族愛”という冠詞があちこちで付けられてしまったことに戸惑ったという。本書では、岸田さんの家族への愛に対する考え方も明らかにされている。

もう離すしかない。
人を愛するとは、自分と相手を愛せる距離を探ることだ。
わたしはばあちゃんを愛している。だけど、このまま暮らしていたら、愛せない。だってばあちゃんは、わたしと弟を悲しませ、ばあちゃん自身も悲しませるのだから。怒りは悲しみと似てる。

 家族だからといって一緒にいる必要はない、離れることだって大切であると。その毅然とした思考は、家族というものについてとことん考え、「もうあかんわ」という状況のなか、身も心も尽くしてきた岸田さんならではの説得力を持つ。そこで「戦略的一家離散」を試みてみるのだが、そこにもまた難儀な問題が横たわっていて……。

 正解なんてきっと誰にもわからない。だからこそ自分が信じる幸せの方へ行こうとする著者の姿から元気が注入される。繰り出されるボケとツッコミに笑みがこぼれる。

ツッコミを。ツッコミを忘れてはいけない。どんだけしんどい日でも。アホバカボケ! と感じたら、すかさずツッコミを入れていくしかない。

「ツッコミは自分に呪いをかけない魔法」であると岸田さんは語っている。自分のせいだとか、自分がそうしたからダメだったんだと、つい思ってしまうところに、“そんなことない!”と、自分と運命にツッコミを入れることで魔法がかかるのだと。

 事態はなんら変わらないかもしれない。でもそれを捉える自分が変わっていく、幸せの方へ歩み寄っていく、ということをこの本は教えてくれる。

文=河村道子

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