徳川政権下に築かれた城は、敢えて同じような構造をしていた? その理由とは『家康と家臣団の城』【書評】

文芸・カルチャー

更新日:2021/11/30

家康と家臣団の城 (角川選書)

著:
出版社:
KADOKAWA
発売日:
家康と家臣団の城
『家康と家臣団の城』(加藤理文/KADOKAWA)

「城」は日本史における「主役」のひとりだと言っても過言ではない。現代にまで遺るその人為的な建造物は、実にさまざまなことを私たちに伝えてくれるからだ。

『家康と家臣団の城』(加藤理文/KADOKAWA)は、徳川家康とその家臣たちが関わった城について、その来歴、構造、城主、戦略的なポジション、合戦での様子などを、当時の史料や発掘調査なども踏まえ、情報満載にまとめた1冊だ。

 本書を読み、城というものは実に明確な意図を持って築かれていることに、改めて気付かされた。「なんとなく建ててみた」なんて城は、(当然だが)ひとつもなく、建てる理由、場所、構造、全てが考え抜かれているのだ。

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 ある城は権威を象徴させるために。ある城は合戦に備えた防御施設として。それも、銃火器の使用が多くなり、その威力を武将たちが体感した関ケ原以前と以後で、築き方も異なって来る。さらに城は、多くの場合仮の敵が想定されており、それに最適化した形で造られる。武将たちの意向が大きく反映される物だからこそ、城について知ることは、彼らの思考や感情、そして当時の状況に迫る重要な史料にもなるのである。

駿府城で発掘された天守台から築城年代を知る

 例えば、家康が築城した駿府城は、天正13年7月より築城が開始され、まもなく完成。しかし天正15年、改修が始まる。しかも、これまでの家康の城にはなかった「石垣」が造られ始めるのである。

 この天正13~15年の間に、家康は豊臣政権ナンバー2の地位を得るという大きな変化を経ていた。よって駿府城も、その地位にふさわしい城として、「豊臣政権が全面的に関与して改修工事を実施しようとした」と考えることができるそうだ。

 また、2016年から駿府城の発掘調査が行われ、その頃の天守台と思われる遺跡が発掘されている(家康ではなく、豊臣政権三中老のひとり・中村一氏が築いた可能性もある)。

 検出された天守台は、「南北約37×東西約33メートル、東に約10メートル四方の渡り櫓状の石垣を挟んで、台形の小天守台状の石垣が付設する」「石垣は大型の巨石(最大長3メートル)を積み上げた天守台と、中型石材主体のその他の石垣に大別される」そうだ。この巨石を積み上げた部分を見れば、築城年代が推測できるのだという。

徳川系の城郭と豊臣系の城郭に見られる違いとは

 読んでいて最も興味深かったのは、徳川系と豊臣系の城郭に、異なった特徴があるという記述だ。

 豊臣系の城は過剰防衛とも言える複雑な構造で、作り手の個性があった。よって内部を知り尽くした城主や家臣でないと、その戦闘能力を存分に発揮することができない。

 一方で徳川系の城郭(主に、徳川政権発足後)は、「誰が入ろうとその能力をフルに発揮できることを目指していた」。

 多くの城が、高い石垣に直線を連ねた塁線上に建ち並ぶ多門櫓(たもんやぐら)、要所に構えられた枡形虎口(ますがたこぐち)、角地に巨大隅櫓という構造を持ち、徳川軍ならどこの城へ入っても、「同等同一の戦闘が可能だった」。西国からの侵攻という仮想戦闘に備え、広域に城郭網を展開し、必要な城へと兵力集中することが可能なシステムを作ったのだという。また、兵士の実戦経験の少なさを補う意味合いもあったようだ。

家康と家臣団の城
徳川政権下の城に多く見られる多門櫓。あらゆる面で機能的。写真は駿府城二の丸東御門

 本書は『信長と家臣団の城』『秀吉と家臣団の城(刊行予定)』(どちらも中井均著)という戦国三英傑の城シリーズのひとつとなるそう。興味のある方はこちらの2冊もあわせて読んで頂きたい。さらなる知識を得ることができるだろう。

文=雨野裾

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