遠い向こうの彼らを知るために

小説・エッセイ

公開日:2012/10/12

時が滲む朝

ハード : Windows/Mac/iPhone/iPad/Android/Reader 発売元 : 文藝春秋
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:紀伊國屋書店Kinoppy
著者名:楊逸 価格:367円

※最新の価格はストアでご確認ください。

ここ数日、わたしたちはたくさんの中国人をテレビで見てきた。デモをしている人たちを見た。叫び声をあげる人たちも見た。店のガラスを割り、建物を叩き壊す人たちも見た。だけど、驚くことがある。わたしたちはその中の誰一人として、名前すら知らないのだ。彼らが普段どのような生活をし、どんな本を読み、どんな過去を経ているのか、一人だって知りはしない。ただ、中国人たちのデモを目撃し、たくさんの議論が飛び交っただけ。遠い遠い場所で、物事は勝手にすすんでいく。

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この、なにか歯がゆい感覚と共に楊逸の『時が滲む朝』を読む。そして、こう書かれている。「学生さんよ、文学か何かわからんけど、若さだけで血が騒いでいるんじゃないか」この物語もデモ活動に参加した若者たちの物語だ。ただし、時代が違う。彼らがデモを起こしたのは1989年、天安門事件のころだ。

秦漢大学に入学した梁浩遠と謝志強は、文学を志して勉強に励むうち、甘先生の思想に影響され、中国の民主化運動に関わっていくようになる。
「五・四運動以来、中国の革命にはいつも我々大学生と知識人が先駆けとなっている。国を救うのは我々しかいない!その昔魯迅は医学をやめ、文学を選び、筆をもって武器となした。我々も書生の身で国に何か出来るのか、我が人民に何が出来るのか、今こそ考えるべきではないか……」
しかし、彼らのデモは失敗に終わり、関係者は大学を追放。謝志強は中国に残り、梁浩遠は日本へと向かうことになる…

物語は天安門事件から北京オリンピック直前までという、一人の人生の側からは長い(歴史の側からは短い)時間の中で、表舞台には登場することなく、それでも活動を続けた人たちが描かれる。そこにはゆっくりと失望していく彼らの姿がある。果たして、彼らの費やした時間は無駄なのか。拾われることのなかった声に意味はなかったのか。

ここで、ひとたび主人公の熱狂していたものの正体について考える。すると、教師の詩の朗読に胸高鳴らせ、朝の五時に二人で詩の復唱をしていた姿が目に浮かぶ。そう、文学だったのだ。

思えば、この小説を通して、中国の中で文学がどのような機能を果たしていたのか、その機能がいったいどのような影響をおよぼしていたのかに気付かされてきた。そして同時に、本来拾われるはずのなかった彼らの声もまた、楊逸の文学によって呼び起こされた。合間に挟まれる漢詩や、ジュディ・オング・尾崎豊の歌詞などに彼らがどんなことを感じたのかを理解することができる。まずは、ここからはじめることはできないだろうか。名前を知らない彼らのことを、彼らの抱える意志を想像する手立てを今、この小説から考えている。


彼らとっての特別な朝

彼らにとっての愛国

彼らにとっての文学

彼らにとっての尾崎豊