卓越した、マッピングと整理の才能。近現代の「文壇」で伊藤整が果たした功績をたどる

文芸・カルチャー

公開日:2022/5/22

「文壇」は作られた
「文壇」は作られた 川端康成と伊藤整からたどる日本近現代文学史』(尾形大/文学通信)

 ノーベル文学賞作家である川端康成と、川端が見いだした作家・批評家であり、『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳者として、表現の自由をめぐって法廷で争ったことで知られる伊藤整を中心に文壇の歴史を描いたのが、本書、尾形大『「文壇」は作られた 川端康成と伊藤整からたどる日本近現代文学史』(文学通信)だ。

 この本の視点が興味深いのは、長大な『日本文壇史』を著作に持つ伊藤整を取り上げつつ、伊藤が描いたような文壇史は「後から作られた歴史」にほかならず、リアルタイムにはそのようなものとして文壇は存在していなかった、というスタンスを取っていることだ。つまり「後世に構成された歴史」と「その時代に実際にあった/当事者たちに感じられていた歴史」の差異を描いていく。

 現在のわれわれにとって川端康成は、多くの人が作品名を知っている『雪国』や『伊豆の踊子』の著者であり、世界的に評価された「文豪」である。1935年に芥川賞が創設されると、最年少で選考委員を務めてもいる。

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 ところが当の川端はノーベル文学賞受賞時に「僕のようなのが日本文学の代表だと思われると、これは困る」とテレビ番組で発言していた。

 伊藤整は、一般的な知名度は川端には劣るが、チャタレイ裁判では文壇を代表する存在として扱われていたことや『日本文壇史』の著者であることは、近代文学史をかじった者なら知っているし、日本近代文学館の2代目理事長を務めてもいる。

 ところが戦前には伊藤整は文壇の傍流にいた作家で、本人は「主流から絶えず白い目でにらまれ」「憎まれ」てきたとまで書いていた。

 つまりふたりとも、戦後にできあがったパブリックイメージと、そこに至るまでに何を考え、何を書いてきたのかということとの間にズレがある。

 当然ながら、誰もがデビュー当時から「大家」だったわけではない。

 ではこのふたりの作家は、どんな風に戦略を立てて文壇に参入してきたのか――この本はそこから始まり、いかにして現在のようなイメージを獲得するに至ったかを記していく。

 筆者が個人的におもしろかったのは、伊藤整という作家は外国文学の動向に目配せの利いた批評家でもあり、いち早くフロイト心理学に注目し、モダニズム文学の最重要作品のひとつであるジェームス・ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を手がけるなどして、それらから得た創作上の方法論を実作に応用していた――が、なかなか突出した作品を著すことができなかった。けれども、その批評家的な感覚で川端らの作品を国際的な文学史のなかに位置づけ・意味づけることに一役買っていた、ということだ。

 表現は適切ではないかもしれないが、おそらく伊藤整という人は、賢く、いろいろ知っているがゆえの器用貧乏的な側面があり、しかし、だからこそ他の作家がハクを付けたり知識を仕入れたりするときには重宝されたのだろう。

 そういう人間でなければ川端は『小説の研究』と題した本を伊藤整に代作させなかっただろうし、そうしたマッピング、整理の才能は、たしかに『日本文壇史』や日本近代文学館のプロジェクトに発揮されている。

 伊藤は、川端がノーベル文学賞を受賞すると、それを明治以来の日本文学の系譜に位置づけ、前後の世代の作家と結びつけて、文壇全体の功績として意義づけるような発言をした。

 それはたしかに「事後的に作られた歴史」であって「実際に当時そうであった歴史」とは違うだろう。しかし、マスコミ的にも業界(文壇)的にも、そうした物語化の手腕に長けた人間がいなければ、文壇の外部に向けて「これはこういう作品・作家で、今とこうつながっている」などと、わかりやすく発信できる情報がなくなってしまう。そうすれば、世の中と文壇とは接点を失ってしまう。

 川端康成が今のような存在として認知されるためには、ただ作品があるだけでは不可能だったのだろう。伊藤のように意味づけ、位置づけて外に向けて発信できる存在がいたからこそ可能だった。

「文壇」が社会の中で価値のあるものとして認識されるためにはどんな役割を担う人がいなければならないのか――「歴史」のことよりもそういう「機能」を担う存在の必要性を感じさせてくれる本だった。

文=飯田一史

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