インドのミントのサンドイッチ/生物群「やさしい食べもの」⑥

文芸・カルチャー

公開日:2022/7/22

 自炊をこよなく愛する内科医・生物群による、どこまでもやさしい食エッセイ。忙しない日常のなか、時に自分を甘やかし、許してくれる一皿の話。

 それまで想像もしなかった、2回のどこにも行けない夏を経験しました。この2年間、夏はTシャツと短パンとサンダルで身軽に知らない遠くの街を歩き、飲み屋に入ってビールを飲んですべての力を抜くのではなく、頬にくっきりと痕のつくN95マスクをつけ、昼も夜もなく救急車の患者搬送を受け入れて、防護服を病室前で着て、脱いで、着て、脱いで、それをひたすら繰り返して汗をかいていたのです。旅は私にとっては泳ぎの間の息継ぎも同然で、この2回の夏の閉じこもりの経験でもういよいよ生きていくのに呼吸ができなくなる寸前でした。私がどこへも出ていけない夏のあいだ家で観ていたのは、世界中の過去のストリートフードの個人チャンネルでした。

 旅先で気軽なストリートフードを食べることが楽しみの一つです。朝だけ開店している台南の食堂で早朝に飲む当帰羊肉湯(当帰と羊肉の薬膳スープ)や、バンコクの会社員が朝ごはん用に買って持っていく街中の屋台で売っているムーピン(甘辛いたれの豚串)とカオニャオ(もちもちした蒸したもち米)、夕方にイタリア・パドヴァの広場に現れるやわらかくゆでた蛸の屋台で蛸を頼み、緑色のサルサ・ヴェルデ(緑色の爽やかなパセリのソース)をかけてプロセッコで立ち飲みしながら広場に沈む夕日を見つめること、ベトナム戦争の史跡を訪ねたホーチミン郊外のバス停横のバインミー・スタンドの前でレバーペーストとジョートゥ(豚耳の入ったベトナムハム)となますの挟まったバインミーを立ったまま食べる喜び。世界のストリートフードや食堂料理はいつも旅先でなんとなく寄るべない私に寄り添ってくれます。

 いつもは一日三食おやつなし晩酌ありの食生活を続けている私ですが、旅先では一日の食事の回数は5回にも6回にもなることがあります。それでも旅先のあらゆるストリートフードは網羅できません。YouTubeでは世界中のストリートフードを注文しそれを食べるまで、手持ちのスマートフォンで撮影した個人の無造作な編集の映像が無数にアップロードされています。

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 私が最初にインドのミントのサンドイッチのことを知ったのは2017年でした。パートナーの家に行ったときに、作ってもらった夕飯を食べビールを飲みながら2人でストリートフードのYouTubeを観たのです。Bombey sandwichと呼ばれるそれを作るサンドイッチ屋台のインド人のお兄さんは、スマートフォンを構える撮影者に向かって笑顔で親指を立てます。今から作るよ。ぺらぺらの食パンを袋から取り出して作業台の上に4枚並べます。これは2食分のサンドイッチになる。2枚に滑らかなバターを、重ねてマヨネーズをナイフで塗ります。もう2枚には緑色のミントのソース、ミントチャトニを塗ります。そこに山ほどの野菜がのっていきます。まずは赤玉ねぎ、そしてトマト。まな板を使わず、空中で器用に薄切りにして、一枚一枚少しずつ重なるように四角い食パンに並べます。それからキュウリ。インドのキュウリはズッキーニのように太くて大きなスライスになります。真っ赤なビーツもスライスをのせる。そしてアルー・マサラ(テンパリングしたスパイス入りのじゃがいも)が平たくのせられ、ふわっと何かの粉(サンドイッチ・マサラと呼ばれるスパイスミックス?)が振られ、そこへチーズの塊をグレーターでこんもりと山になるまで削ります。パタンと対になる片割れの食パンで蓋をして、使いこんでしっかり油染みた鉄のホットサンドメーカーに無理矢理に思えるほどぎゅうぎゅうに挟み、ガスコンロの直火で表に裏に翻転させて火を入れます。

 パカッとホットサンドメーカーを開くと焼き上がったサンドイッチは、こんがりとストライプの焦げが入り、こちらにまでパンを焼いた香りが届きそうです。まな板でサクッと食べやすく切ると、その断面はスライスした野菜たちが緑や赤や黄色の不規則な美しい層になっています。端にひだのついたアルミホイルの皿にざっくりと盛ると、ミントチャトニとチリケチャップをたっぷりと添え、もう一度念押しするようにチーズとグレーターが出現し温かいトーストの表面にこんもりと雪のようにチーズが削られて溶けていきます。できあがり!とお兄さんはもう一度笑顔で親指を立てます。大通りの脇で作られるサンドイッチの背景には、ずっと騒がしい雑踏の足音や大型トラックのクラクション、道ゆく人の異国語の会話が流れています。

 私たちはYouTubeに自動でサジェストされるままにいろいろなストリートサイドのサンドイッチショップの調理を観ていきました。お店ごとにオリジナリティがあって、野菜の組み合わせが違ったり、細かい手順の差があります。食パンが四角形ではなくもともと三角形に焼かれた業務用のそれであることもあります(とってもかわいい)。アルー・マサラがカレー味の粒の残るマッシュポテトではなく、シンプルにゆでた芋のスライスということもあります。だけど基本は同じで、一見ファストフードのようなのに、あまり仕込みをせず、野菜はほとんどその場でスライスして一枚一枚丁寧にのせる。チーズも塊からグレーターで削る。動物性食材があまり入らないことも共通しています。いわゆるチェーンのサンドイッチショップのようにすべて素材の仕込みをしておけばもっと早くできあがるだろうと思うのですが、私がこうすればいいのにと思うより大らかにゆったりとサンドイッチを作っているように見える。そこが面白く「ゆっくり作るな~」と2人で笑いながら遠く離れた異国の路上のキッチンを見つめていました。

 その翌週くらいにパートナーが「面白いから作ってみる」と言って材料を揃え、ミントチャトニやアルー・マサラも手作りで先に準備して、実際にインドのミントのサンドイッチを再現して作ってくれました。遠くの路上で食べられている日常のストリートフードが手をかけて目の前に現れ、そこに行ったことも食べたこともないのにこれ以上ないほどその場所に心が接近して、いわば私たちの遊びの嘘の食べものがこんなにも輝き、美味しく愉快であることを知ったのです。

 そこから4年も5年も経って、今、予想もしなかった世界が訪れていました。確かにいつか旅をしてインドのミントのサンドイッチを食べたいと思っていたはずなのですが、行きたかったインドでは未曽有の疫病の大流行が起き、それにも匹敵するくらい日本にいる私も(幸い一度も感染はしていなかったにもかかわらず)これを読んでいるみなさんと同様、疫病をめぐるさまざまなことに翻弄されて、焦り、苦しみ、毎日消耗していました。

 インドのミントのサンドイッチを作ります。何度もYouTubeで観たからできるはず。ミントチャトニもおそらくインド料理のレストランで食べたことがあるから再現できるはず。ファーマーズマーケットでがさっとたくさんの葉がついたミントの枝の束を手に入れました。硬い茎から葉を剥がすと、指先はミントの汁で涼しくなっていきます。ミキサーに千切ったミントの葉、パクチーの葉、青唐辛子、塩、にんにくと生姜、レモン果汁を入れてペーストにし、適当にゆるさを調節しながら爽やかで青くさいチャトニを作ります。さあその次に、アルー・マサラを作ります。蒸したじゃがいもを粗くつぶして、ヒーング、マスタードシード、クミンシード、玉ねぎのスライス、乾燥唐辛子、ターメリックパウダーをジュクジュクとオイルでテンパリングしたものと混ぜて最後に塩で調味して作りました。ビーツは蒸してスライスしておきます。薄切りの食パンを焼き、映像で観たのと同じように、ペーストを塗り、あのゆったりとした感じで自分の台所で野菜を重ねていきます。チーズもグレーターでこんもり削ります。パタンとつがいの食パンで蓋をして、焼きます。ホットサンドメーカーを持っていないので、重し(すぐそばにあった湯の入ったやかん)をのせてフライパンで火を入れてバターで焦げ目をつけることにします。たっぷり挟んだので、端からどんどん野菜たちが溢れ落ちそうなのをなんとか挟み直して裏返しに焼きます。だいたい火が入ったら、さっくりとはすに切って、小判皿に盛り、ミントチャトニをぺたっと盛ります。不恰好ですがやはり色とりどりの野菜たちが不規則な層を作り、いとしい感じがする。遠くの世界を考えながら見様見真似だけの食べものを舌にのせて味わうと、口の中でその世界が広がっていきます。

<第7回に続く>

生物群(せいぶつぐん)
東京在住。都内病院勤務の医師。お酒と食事が好きで、ときどき帰宅してから夜寝る前まで料理を作り続けてしまいます。


Twitter:@kmngr