白紙のはずのノートに大きく書かれた「お前は 誰だ?」の文字。女子高校生の三葉(みつは)には見覚えがなく…/小説 君の名は。②

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/29

山あいの田舎町に暮らす女子高校生・三葉(みつは)は、自分が男子高校生になる夢を見る。一方、東京の男子高校生の瀧(たき)も同じく奇妙な夢を見る。やがてふたりは夢の中でお互いが入れ替わっていることに気づき――。大ヒットを記録した映画『君の名は。』を、監督の新海誠みずからが執筆した『小説 君の名は。』の第一章から第二章を全3回連載でお届けします。今回は第2回です。小説版では、瀧と三葉の視点が交互に描かれ、映画では描かれなかったふたりの心の内が浮かび上がってきます。2022年11月公開の映画最新作『すずめの戸締まり』を観る前に、ベストセラーとなった人気作『小説 君の名は。』をお楽しみください。満員電車に乗っている瀧の前に、まっすぐにこちらを見つめる制服姿の少女。「覚えて、ない?」と問われるが…。

小説 君の名は。
『小説 君の名は。』
新海誠/KADOKAWA)

第二章 端緒

 知らないベルの音だ。

 まどろみの中でそう思った。目覚まし? でも、俺はまだ眠いのだ。昨夜は絵を描くのに夢中になっていて、ベッドに入ったのは明け方だったのだ。

「……くん。……たきくん」

 今度は、誰かに名を呼ばれている。女の声。……女?

「たきくん、瀧(たき)くん」

 泣き出しそうに切実な声だ。遠い星の瞬きのような、寂しげに震える声。

「覚えて、ない?」

 その声が不安げに俺に問う。でも、俺はお前なんて知らない。

 突然電車が止まり、ドアが開く。そうだ、電車に乗っていたんだ。そう気づいた瞬間、俺は満員の車輛に立っている。目の前に見開いた瞳がある。まっすぐに俺を見つめている少女、その制服姿が、降車の乗客に押されて俺から遠ざかっていく。

「名前は、みつは!」

 少女はそう叫び、髪を結っていた紐をするりとほどき、差し出す。俺は思わず手を伸ばす。薄暗い電車に細く差し込んだ夕日みたいな、鮮やかなオレンジ色。人混みに体を突っこんで、俺はその色を強く摑む。

 

 そこで、目が覚めた。

 少女の声、その残響が、まだうっすらと鼓膜に残っている。

 ……名前は、みつは?

 知らない名で、知らない女だった。なんだかすごく必死だった。涙がこぼれる寸前の瞳、見たことのない制服。まるで宇宙の運命を握っているかのような、シリアスで深刻な表情だった。

 でもまあ、ただの夢だ。意味なんかない。気づけばもう、どんな顔だったかも思い出せない。鼓膜の残響もすでに消えている。

 それでも。

 それでも、俺の鼓動はまだ、異常に高鳴っている。奇妙に胸が重い。全身が汗ばんでいる。とりあえず、俺は息を深く吸う。

 すーっ。

「……?」

 風邪か? 鼻と喉に違和感がある。空気の通り道が、いつもよりもすこし細い。胸が、奇妙に重い。なんというか、物理的に重いのだ。俺は自分の体に目を落とす。そこには胸の谷間がある。

 そこには胸の谷間がある。

「……?」

 そのふくらみに朝日が反射し、白い肌が滑らかに光っている。ふたつの胸の間には、青く深い影が湖のようにたまっている。

 もんでおくか。

 俺はすとんとそう思う。りんごが地上に落ちるみたいにほとんど普遍的に自動的に、そう思う。

 ………………。

 …………。

 ……?

 …!

 俺は感動してしまう。おおお、と思う。なんなんだこれは。俺は真剣にもみ続ける。これってなんというか……女の体ってすげえな……。

「……お姉ちゃん、なにしとるの?」

 ふと声の方向を見ると、小さな女の子が襖を開けて立っていた。俺は胸をもみながら、素直な感想を言う。

「いや、すげえリアルだなあって……。え?」

 あらためて少女を見る。まだ十歳くらいか、ツインテールでツリ目がちの、生意気そうな子どもだ。

「……お姉ちゃん?」

 俺は自分を指さし、その子に問う。ていうことは、こいつは俺の妹か? その子は呆れきったような表情で言う。

「なに寝ぼけとんの? ご・は・ん! 早く来ない!」

 ぴしゃり! と叩きつけるように襖を閉められる。なんか凶暴そうな女児だなと思いながら、俺は布団から立ち上がる。そういえば腹も減っている。ふと、視界の隅の鏡台に目がとまる。畳の上を何歩か歩き、鏡の前に立ってみる。緩いパジャマを肩からずらすと、それはぱさりと床に落ち、俺は裸になる。鏡に映った全身を、じっと見つめる。

 寝癖でところどころ飛び跳ねた、黒く長い水流みたいな髪。小さな丸顔に、もの問いたげな大きな瞳、どこか楽しげな形の唇、細い首と深い鎖骨、おかげさまで健康に育ちました! と主張しているかのような胸のふくらみ。うっすらと浮かぶ肋骨の影、そこから続く、柔らかな腰の曲線。

 まだ俺は生で見たことはないけれど、これは間違いなく、女の体だ。

 ……女?

 俺が、女?

 突然に、それまでぼんやりと体を覆っていたまどろみが晴れわたる。頭が一気にクリアになって、一気に混乱する。

 そしてたまらずに、俺は叫んだ。

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