「なぜ人は人を叩くのか」内田 樹×名越康文×橋口いくよ 勝手に開催!国づくり緊急サミット

更新日:2013/8/6

「ファン」と「嫉妬する人」は表裏一体

橋口 内田先生はありますか? 内田先生の発言や活動に対して同化してしまう人が何か言ってきたりとか。

内田 「俺にだってあれくらい書ける」って思っている人はたくさんいるね。

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名越 相手がどんな人であろうと、意見や考え方がだいたい同じだと思えてくると、自分のほうがもっとうまくできるはずだって思い込んでしまうんですよね。

橋口 それって「絶対気が合うと思う」とか「私と似てると思う」っていうファン心理とすごく近い気がします。

名越 同じと言ってもいい。表面的には好意があるように見えるけれど、あと少しで「何であいつが」になってしまう可能性は、非常に高いんですよ。

内田 ファンと「嫉妬する人」って、ある意味表裏一体なんだよね。同化してるの。だから、例えば「ファンです、サインしてください」って言った時に「ごめんなさい。時間がないんです」って断ったりすると、もう次の瞬間に「あの野郎、ちょっと売れてきたと思って態度でけえな」に変わっていたりする。

橋口 そうやって、あまりよく知らない人や、会ったこともない人に同化するってどういうことなんでしょう。昔も芸能人に自分を重ねて家まで行ったり、嫌がらせをしたりっていうことはあったんだろうけれど、それは突飛な事件だったと思うんです。でも、今は、嫌なコメントやメールをしたりして叩くっていうかたちで、それに近いことが頻繁に起こっています。

内田 個人情報がかなり公開されているからね。

橋口 芸能人じゃなくても、自発的にブログやツイッターをやっている人はいっぱいいますもんね。あれも情報の断片だから。

名越 それを見て、自分とそう変わらないレベルの人間のはずなのに、この人のほうがいい生活をしているとか、楽しそうとか、ちやほやされてるっていうふうに嫉妬しながら、どんどん自分を重ねていってしまうんですよ。

橋口 でも自分のその感情を嫉妬や同化だと認めたくないから、ブログやツイッターでの発言の中からいろんな理由をつけて叩く。その相手が芸能人とか有名人となると、さらに入ってくる情報も増えるから、余計そうなりやすいっていう。

内田 テレビや活字で触れる機会が多いと、なんかすごくよく知っているような気になっていくんだよ。会ったこともないのに友達みたいな感覚になってきて。そのうちに「なんであんなのが売れるんだよ。あんなのインチキなのに」って思うようになる。それはどこかで自分自身のことをインチキだと思っている部分があるからなんだよね。

橋口 確かに。同化しているわけだから、そこも同じなはずなわけで。自分に向けた言葉でもあるってことですよね。他人を使って自分を叩いているということでもあったのか。それって、今の自分に満足していない、不満がある状態だからなんでしょうか。

名越 まさにそうだと思いますよ。だから不安で、とにかく少しでも誰かの上に立ちたい、上から目線でありたいと思うからなんですよね。前回もお話ししたように「俺は知ってるぜ」という上から目線の下に論文調で語ることは本当に避けなければならないと感じます。誰しもそうなる可能性がありますから、もちろん自戒の念もこめてね。

橋口 「そんなこと言うおまえのほうが上から目線のくせに」というもう救いようがないことを言い出す人が出てくるかもしれない、終わりなき叩き……。

名越 というふうになってくるから、きりがない。だからこそやっぱりその人の人格よりも文体を見直すことが、今はまず必要だと僕は思うんです。語尾を変えるとか、そういうちょっとしたことからでいいんですよ。

橋口 極端に言えば、なんとかだぜぇ〜的な感じのでも?

名越 そうそう! 「ワイルドだぜぇ」って、僕、最高だと思うんですよ。そういう感覚で、男はみんな「なになにで候」っていうふうに言うとかね。

橋口 以前「揚げ足をとる人々」でも話題に出ましたよね。例えば、ツイッターは全部韻文にしたらどうだろうとか、俳句とか短歌にしたらどうだろうって。

名越 うん。ネットでのあれこれを突き詰めていくと、やっぱりこうして「口調」とか「文体」というところに戻ってきてしまうんですよね。バッシングに関してもやはりそこが重要なポイントになるんじゃないかな。論文調って、誤解を恐れずに言えばオタク口調なんですよ。というより、オタク口調やオタク的文体の元祖が論文調であったというのかな。オタク口調って「あれもこれも織り込み済みですべて見透かしています」っていう立ち位置から語るというのが基本にあると僕は思うんです。もっと言えば相手に対して「これを知らない方はちょっと救いようのない馬鹿なんですけど、まさか、あなたそうじゃないですよね? ですよね! あ、もちろんあなたは知的な人ですものね。え、そうじゃない? わからない? それは困りましたねえ。そういう方とは同じ空気を吸いたくありませんねえ」っていうような気持ちが裏にあるんですよ。つまり、聞く人に対する軽視を裏に保った自己との同一視があるんですよね。

他人の自己判断の領域にまで踏み込んでしまっている

橋口 「叩く」という行為を、自覚的にしている人もいれば、叩いているという自覚がない人もたくさんいると思うんです。いや、どこかではわかっているのかもしれないけれど「あなたのためによかれと言ってあげてる」って人もすごく多いように感じます。悪意じゃないのよ、って。

名越 それはとてもたちが悪い。

橋口 少し前に話題になったのは、ブログなどでの子供の写真問題。今は自分の子供の顔の目の部分や、顔全部をスタンプで隠して写真をあげている人たちが、たくさんいるんです。そうすることが、なんとなくのルールみたいになってきているらしいんですね。堂々とブログにアップしたりすると「子供の写真を載せるのはやめたほうがいいんじゃないですか」ってコメントがついたりするんですって。

内田 なんでいけないの?

橋口 子供の人権はどうなるんだってことらしいんだけど。

名越 そんなの、脈略もわからない他人に言われることじゃないと思うんですよね。

橋口 私は、最初、他人がそこまで言うってことは、子供が誘拐される可能性があるとか、危険な目にあいやすいからなんだろうかって考えてみたんです。でも、生まれたばかりの赤ちゃんを載っけても「非常識だ」的なことを言うのが疑問で。赤ちゃんは一人でふらふらもしないから誘拐は考えづらいし、一人で出かけるようになる頃には顔だって変わるだろうし。

名越 百歩譲って「危険な目にあうかどうか」という部分で考えてみて、それがどんなに正しくても、そんなことまで他人にとやかく言われることじゃないですよね。そこは、あくまで自己判断の域であって。

内田 「人権」って言葉は気安く使うものじゃないよ。そういう言葉を切り札みたいに使う人間は信じちゃ駄目。

橋口 子供の人権という言葉を使って指摘する人は、危険がどうこうというのと、結局その子供が意志を持って「私はブログに出たい」「私はネットに顔をさらしてもいいですよ」っていう判断をできるようになるまでは、出してはいけないんじゃないの?っていうことを、親に教えてやらなきゃという善意のつもりなんだろうけども。

名越 相手が間違っていて自分が正しいということを言いたいだけで、公式的な理由、つまり「定型」に他人を当てはめようとしているんですよね。

橋口 しかも複数でよってたかって当てはめようっていう状態ですよね。

内田 子供の写真がどうしていけないのか、僕にはよくわかんない。いいじゃない、自分にとってすごくかわいいたいせつなものだから、人にも見てほしいんだから。オフィスの机の上に家族の写真並べているのといっしょじゃない。他人の行為を批判する人って、「あなたは善意かもしれないけれど、それは悪いふうにも解釈されるんだよ」っていう言い方するでしょ。僕嫌いなのよ、その言い方。悪いふうに解釈しているのはあんたじゃないの。「あなたは悪意に解釈するかもしれないけれど、それは善意にも解釈できるんだよ」って反転させたら、行き止まりじゃない。子供が親に向かって「勝手に僕の写真、ネットに載せるなよ」とか言うならわかるけど。一般化できないよ。