官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第52回】岡野苑子『満員電車で逢いましょう』

公開日:2014/8/5

岡野苑子『満員電車で逢いましょう』

よろけた身体を支える手、ゆっくりと絡まる互いの指――高野英臣、27歳独身趣味なし恋人なし。今日も満員電車に乗り込んで、社蓄の使命をまっとうすべく 通勤中。でも、その日は違った。優しく触れる“あの手”に出逢い変わり始めた日常は、「もっと触って、求めて」そんな欲求に支配されるようになり――。

 

     ◇◇◇

 安眠のために去年購入した遮光カーテンの威力は絶大で、おかげで俺はスマホのアラーム音を最大値に設定しておかないと目覚めることができなくなった。まあ寝起きが悪いのは子供の頃からだけど。

 低血圧が治らないんだ。アラームを止めてからの数分間が特にきつくて地獄のよう。不規則な生活が祟ったのか社会人になってからは特にひどくなった。幸い 仕事をするのは好きだから、寝起きさえスムーズになれば人生最高で文句なしといったところ。いや嘘だわ。仕事好きだけどめっちゃつらいわ。昼まで寝てたい わ。平日爆発してくんねーかな。

 時間を掛けてベッドから起きだし、目覚めるためのシャワーを浴びて、手早く身支度を整える。「乾くのが早いから楽」という色気のない理由で短くした黒髪 は、ワックスで適当に混ぜるだけで格好がつくので意外と便利だ。ネクタイを締め、スーツに袖を通し、鞄を携えて玄関を出ればあら不思議、素敵な寝不足サラ リーマンの出来上がりである。

 高野英臣、二十七歳。会社員生活を送ること五年。

 働く歯車は今日も元気に悲鳴を上げつつ稼働中。

     ◇◇◇

 ちなみに朝の地獄は、何も起き抜けの瞬間だけじゃない。

 住宅街を進み、閑散とした繁華街を抜けて、駅前に着く頃には辺り一面の人、人、人! 改札を抜ければその数はさらに膨れあがり、駅のホームは乗客で溢れ んばかりの大混雑。すでにこの段階で己の低血圧も相まって卒倒しそうだというのに、これでもかと人間を詰めこまれた満員電車にこれから乗りこもうっていう んだから俺はマゾか何かか。拷問にも程がある。

 でもこの通勤快速に乗らないと俺は会社にも行けないし、会社に行けないということはお賃金が貰えないということで、お賃金が貰えないと家賃も光熱費も食 費も払えず、さらには動画配信サイトの月額九百八十八円も当然支払えなくなり、大好きな海外ドラマを視聴できなくなることを意味するわけで、つまり俺に選 択肢はない。

 と、自ら言い聞かせて毎朝乗っている。

 ホームでの整列乗車に参加している。

 気分はさながら死刑囚。

 というわけで今日も、いつも通りの時刻の電車、いつもの車両、いつものドアの前に俺は立っていた。去年設置された飛びこみ防止用のホームドアが開き、続 けてすぐ車両の扉も開く。毎度のことながら誰ひとりとして降りてこない光景に目眩がした。すでにこれだけ人間が乗っているのに、これからさらに乗りこむん だぞ? 降りる頃には体の形が変わっちまうよ。

 と、うんざりしながら俺が乗車したら、後続する乗客によってさらに奥へと押しこまれた。いや~無理むり、無理だって、これ以上入んないって。なんて絶対 俺以外にも思ったやつはいるのに、なんの不平不満の声を上げることもなく、ただただ人の波を受け入れる訓練された会社の家畜たち。涙ぐましいね。

 圧迫されすぎて息苦しささえ俺が感じたところで、満員電車の扉は静かに閉じ、動きだした。

 楽しい楽しい都会のランデヴー。

 神奈川県出身の俺が東京を走る電車に乗るようになったのは、遡ること大学一年生の時のことである。あの頃から俺は満員電車が嫌で嫌で仕方なかったのだ が、幸い乗りこむのが始発駅だったおかげで楽に着席でき、その当時はさほど苦には感じていなかった。嫌だったけど。一限落としまくったし。それから経つこ と早九年。──九年。

 九年!? まじで?

 小学校のガキが大学生になる長さだぞ。

 一気に自分が老けこんだ気がして、人と人の生ぬるい体温でサンドイッチにされながら絶望的な気分に陥る。九年。そりゃそうだ。大学入学した時、俺はまだ 十代だったんだから。おええぇ、おっさんじゃん俺もう死にたい。寝る間も惜しんで社畜してる場合じゃない。大体、支払限度額を超えてまで残業したところ で、独身趣味なし恋人なし、たまの休日も疲れ果てて十四時間も寝ているような俺が、いつどこでなんのために貯金を切り崩して使う可能性があるというんだ。 過労の末の入院費くらいしかとっさに思い浮かばなくて悲しい。

 

2013年9月女性による、女性のための
エロティックな恋愛小説レーベルフルール{fleur}創刊

一徹さんを創刊イメージキャラクターとして、ルージュとブルーの2ラインで展開。大人の女性を満足させる、エロティックで読後感の良いエンターテインメント恋愛小説を提供します。

9月13日創刊 電子版も同時発売
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