官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第55回】松本梓沙(原作:冬森雪湖)『【お試し読み】失楽園に濡れる花』
公開日:2014/8/26
松本梓沙(原作:冬森雪湖)『【お試し読み】失楽園に濡れる花』
院長令嬢で誰もが羨む美貌をもつ英愛(えあ)。豊かで穏やかな日々を過ごしていたが、ある日出遭った妖艶な男によって、すべてを奪われてしまう。愛する 父、与えられるはずだった財産、そして彼への恋心と処女さえも。復讐を誓いながら無一文で放り出された英愛に、男たちからの数々の魔の手が襲いかかる。監 禁、陵辱……孤独と絶望のさなかで訪れる新たな恋が、さらに英愛を翻弄し――。愛と憎しみが絡み合う、淫靡系サスペンス・ラブ!
アスファルトにひれ伏して見上げたその男は、こわいぐらいに綺麗な顔だちをしていた。
立ち上がれずにいる英愛(えあ)を助け起こそうもせず、冷ややかな微笑を浮かべている。完全なる勝利をおさめた者だけが持つことを許された笑みだった。
「復讐してやる……」
英愛にできたのは、男を睨みつけ、怒りの声を絞りだすことだけだった。
あふれ落ちてくる涙を拭うこともできない。髪をふりみだし、両手を地面についたまま、ありったけの憎しみをぶつける。
道行く人が珍しそうにこちらを覗きこむが、そんなことも気にできなかった。
この男にすべてを奪われた。たった一人の肉親だった愛する父を。その父に慈しまれて過ぎていった、穏やかで恵まれた生活を。父から与えられるはずだった財産を。
そして……処女を。
何もかもがこの男のせいで変わり果て、あるいは壊れ、もう二度と英愛の手には戻らない。
男は背を向け、英愛を置いたまま悠然と歩きだした。
「必ず……復讐してやるから!」
英愛は叫んだ。こんな声をあげたのも、これほどまでの憎しみを誰かに抱いたのも生まれて初めてだった。
男の歩みが、止まった。
「……おもしろい。ならば、そこから這い上がってくればいい」
ゆっくりと振り向いた顔には、先ほどよりもさらに冷酷な微笑が刻まれていた。
切れ長の目がすぅっと細められる。表情が研ぎ澄まされた刃のような鋭さを帯びた。
美しさと迫力とに圧倒され、一瞬息が詰まる。
「教えてやろう、お前が復讐するべき男の名を」
英愛は氷の矢で撃ちぬかれたように目を見開いて男を見つめた。これから伝えられることの重みを瞬時に感じとって、唾を飲みこむことさえ忘れる。
端正な唇が、挑発するようにゆっくりと開かれていった。
「俺の名は……」
そこから、英愛が生涯忘れることのなかった名がこぼれ落ちた。憎悪とも愛とも判別できない思いを抱いて、追いつづけることになる名が。
***
「まぁ! 見事な出来だわ、筒井(つつい)さん!」
中年の女の甲高い声が会場中に響く。おおげさに張りあげた声に、近くにいた人々が失笑を漏らした。
「華麗で、優美で。うちの教室始まって以来の天才ね」
「いえ、そんな……」
英愛は小声で謙遜した。二人の前には、薔薇を中心にガーベラやテッセンといった大ぶりな花が華やかに活けられた花器が置かれている。英愛が活けたものだった。
周囲には同様にいくつものいけばな作品が並んでいた。会場の入り口には「高尾流いけばな教室 展示会」と書かれた看板が立てられている。
有楽町駅にほど近いビルの五階にあるその場所は、休日の昼というせいもあってか、そこそこの賑わいだった。
中心は二十代から五十代の女性だったが、カメラを手にしたマスコミ関係らしい男もいる。流派の家元である高尾龍子(たかおたつこ)が先日、人間国宝に指定されたのを受けてだろう。
「ここで薔薇をテラコッタにしたところにセンスを感じるわ。この色が、ほかの花をうまく引き立てて……」
放っておいたらいつまでも続きそうで、英愛は内心で気を揉んだ。女性は「若先生」と呼ばれる、高尾龍子の高弟の一人だった。
「あーあ、また始まったよ。若先生の金持ちびいき」
英愛よりも数年早くいけばなを始めた若い女性が、こちらを見て苦笑している。その隣にいたべつの女性が肩をすくめ、あきらめたように溜息をついた。
「まぁ仕方ないよね、筒井さんは。大学病院の院長のひとり娘で、一流大学の学生。女優もかくやという美人で、かつ性格もいいとなったら、いけばなじゃなくても褒めるしかないじゃない」
恥ずかしさとうれしさが入りまじった感情が、胸の中で小さく膨らんだ。と、同時にどこか居心地の悪い気分にもなる。
幼いころから何度も繰り返し、多くの人にいわれてきたことだ。完璧な美貌。才色兼備。父子家庭ではあるが、その父親から愛情と金銭的な豊かさを一身に注がれた奇跡のような存在――。
だが、そういった賛辞を聞いても、いつも素直に喜べなかった。誇らしくはあるのだが、あなたは私たちとはべつの世界の人間だと排除されているような寂しさや孤独感をまず覚えてしまう。
2013年9月女性による、女性のための
エロティックな恋愛小説レーベルフルール{fleur}創刊
一徹さんを創刊イメージキャラクターとして、ルージュとブルーの2ラインで展開。大人の女性を満足させる、エロティックで読後感の良いエンターテインメント恋愛小説を提供します。