官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第55回】松本梓沙(原作:冬森雪湖)『【お試し読み】失楽園に濡れる花』

公開日:2014/8/26

 入り口でざわめきが起こった。カメラを持った男が駆けていく。

 高尾流いけばなの家元である高尾龍子その人が、そこには立っていた。八十一になる龍子は杖を手にしていたが、悪いのは足だけのようだ。眼鏡の奥の眼光は鋭く、肌にも張りがある。

 龍子は迎えに出た若先生の案内を受け、展示された作品を入り口側からひとつずつ見て回った。二人はやがて英愛の作品の前にやってきた。

「大先生、見て下さい。筒井さんの作品、見事でしょう」

 はしゃぐような若先生を振り向きもせず、龍子はじっと英愛の作品を見つめた。刺すような視線は粗を探しているようでもある。

「……醜いね」

 ぽつりと吐きだされた言葉に、英愛は耳を疑った。

「うわべばかりで空虚だよ。私はこういうのはきらいだね」

「だ、大先生……その……」

 若先生がいびつな笑みを貼りつけて、その場を取り繕おうとする。龍子はそれ以上、作品にも英愛にも一瞥もくれることなく、次の展示作品へと進んでいった。

「あの、筒井さん、気になさらないでね。大先生、ちょっと今日は……」

「いいんです。私、表に飾った作品をちょっと見てきますね」

 英愛は若先生に軽く一礼すると、会場を出た。先ほど英愛のことを話題にしていた先輩生徒たちの、底に悪意を感じさせる笑い声が背中に届く。

 十五歳のときから五年習いつづけた中で、英愛が龍子から評価されたことはなかった。龍子はこれまで何度も、英愛の作品に痛烈な批判を浴びせた。批判の中には頻繁に「空虚」という言葉が登場した。

 空虚とは何だろう。花は美しくあでやかであれば、それでいいのではないか。それが花の本分ではないのだろうか。

 いけばなを習いはじめてから、何度も賞を獲った。それなりの人物に称讃されたこともあった。それでも龍子にだけは認められない。認めてくれない。

(もういけばななんて止めようかな。べつにこれを仕事にしたいわけじゃないし……)

 エレベーターで一階に降りた英愛は、出入り口のドアを目指した。その横にもいくつか作品が展示されており、中には英愛のものもあった。

 自動ドアから出た瞬間、何者かとぶつかった。相手はどうやら作品を眺めていて、ちょうど歩きだしたタイミングだったらしい。

「あ……っ!」

 建物の前に敷かれていた金網に靴のヒールが引っかかる。前のめりになった勢いでそこに体重がかかりヒールが折れて、体が前方に投げだされた。

「痛……」

 地面に膝を擦った。立ち上がろうとしたが、ヒールが折れたせいでかかとにうまく力が入らない。

(今日はもう最低……)

 涙が滲んできた。父に買ってもらった、気に入っていた靴だったのに、よりによってどうしてこんな日に壊れるのだろう。

「こんなことで泣くか?」

 頭上から声が降ってきた。低い男の声。あたたかい雨のようだった。

 ふいに体が浮いた。目線がとつぜん高くなり、休日の町を行く人々の頭が下に見えた。英愛はその男に抱き上げられていた。

 男はそのまま歩きだした。奇妙なオブジェのようになった二人に、周囲の視線が一斉に注がれる。

「ちょ、ちょっと下ろして下さい!」

「なぁ、知ってる? アスファルトに足をつくとストッキングが破れて、さながらレイプされたみたいになるんだ。そっちのほうが恥ずかしいと思うけど」

「これだって十分恥ずかしいです!」

 何者かわからない相手に、いや、何者かわからない相手だからこそ声を荒らげた。

「まぁいいや、あと少しだ。おとなしくしていてくれ」

 

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