もしも妄想変態が大金を手にしたら? 江戸川乱歩『パノラマ島奇談』| 連載第4回

更新日:2015/9/24

「愛おしき変態本」第4回は、名探偵「明智小五郎」の生み親である江戸川乱歩をお送りする。独自の怪異な世界を描きながらもなぜか美しい、という数々の作品を世に送り出した乱歩のプロフィールはこちら。


えどがわ・らんぽ 1894年(明治27年)三重県名賀郡名張町出身。本名は平井太郎。ペンネームはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーから名付けられた。1916年早稲田大学卒業後、大阪の貿易会社に就職。翌年鳥羽造船所電気部に転職するも、19年に上京。2人の弟と古本屋「三人書房」を開業、漫画雑誌『東京パック』の編集長も務める。20年東京市社会局に就職し、江戸川藍峰のペンネームで『石塊の秘密』を執筆。23年『二銭銅貨』が雑誌『新青年』に掲載され、以後作家として本格的に活動。『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『陰獣』『芋虫』『押絵と旅する男』『怪人二十面相』『黒蜥蜴』など数多くの作品を執筆。戦後は日本推理作家協会の初代理事や、雑誌『宝石』編集責任者を務め、新人作家の発掘も熱心に行った。65年(昭和40年)7月28日、脳出血のため死去。

 SM、フェティシズム、コスプレ、覗き、人形愛、耽美、少年愛など「変態のデパート」と言ってもいい乱歩の数多くの作品から何を選ぶか非常に迷ったが、やはりここは妄想ばかりしていた貧乏な変態が突然大金を手にしたら、ありとあらゆる変態の限りを尽くしてロクなことにならなかった、という『パノラマ島奇談』を取り上げたい。本作は1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけて雑誌『新青年』に連載されたのだが、乱歩によると当時編集長だった横溝正史の巧みな勧めによって執筆したという。そう、あの名探偵・金田一耕助を生み出した作家だ。いやはや、なんとも恐ろしい2人!

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『パノラマ島奇談』の舞台はM県S郡のI湾に浮かぶ、大きさは直径二里たらず(約8キロ)でほとんど人が寄り付かない、地元で「沖の島」と呼ばれている無人島だ。所有するのはM県T市に住む県随一の富豪である菰田家。この当主であった菰田源三郎が、持病の癲癇(てんかん)の発作で亡くなったことが物語の発端となる。

 その死を聞きつけたのが、人見広介という男だ。30歳をだいぶ過ぎているように見える売れない貧乏小説家、というかほとんど無職の広介は、源三郎になりすまして菰田家の財産を自分のものにしようと思いつく。なぜなら大学時代の同級生である2人は「双生児」といわれるほど見た目がそっくりだったからだ。そして広介には自分が妄想の中で作り上げた「理想郷」を実現したいという強い思いがあった。

「もしおれが使いきれぬほどの大金を手に入れることができたらばなあ。先ず広大な地所を買い入れて、それはどこにすればいいだろう、数百数千の人を役して、日頃おれの考えている地上の楽園、美の国を作り出して見せるのだがなあ」

 今の人生のままでは絶対に無理だが、源三郎が墓から生き返った(当時、癲癇は仮死状態のまま誤って埋葬されてしまうことがあった。また菰田家のある地域では土葬が普通という偶然が重なっている)ことにして自分が成り代われば実現できるかもしれない、しかしそんなバカらしいことを…と煩悶するが、結局欲求には勝てなかった。周到な準備をし、「人見広介」の入水自殺を偽装、まんまと菰田家に潜り込むことに成功する。当主となった広介は莫大な資産を次々と売却して資金を集め、建設準備を開始。おびただしい建築材料を発注し、各地から人が集められ、さらには何の目的かよくわからない若い女たちまでも彼の家に集まり始める。やがてその理想郷の建設地が沖の島に決定すると、人や資材は島へと送り込まれ、ついに大工事が始まる。さらに計画に異議を唱える者を、広介は金の力で封じていく。

 しかし源三郎の妻・千代子は、この男は夫ではないのでは、と怪しんでいた。そこで広介は千代子を殺す決意を固め、説得して島へ連れて行く。沖の島は菰田家から1時間ほど汽車に乗り、終点のT駅で下車、さらにモーターボートで1時間ほど行ったところにあるのだが、島に到着しても接岸せず、岸から30メートル以上離れたところにある約4メートル四方の鉄張りになっているブイのようなものが浮かぶ場所に船が着けられ、2人はその上に降り立つ。すると広介は千代子にこんなことを言う。

「ここからもう一度、よく島の上を見てごらん。あの高く岩山のように聳えているのは、みんなコンクリートでこしらえた壁なのだよ。そとから見ると、島の一部としか思われぬけど、あの内部には、それはすばらしいものが隠されているのだ。それから、岩山の上に頭を見せている、高い足場があるだろう。あれだけがまだ出来上がらないで、いま工事中なのだが、あすこには、恐ろしく大きな、ハンギング・ガーデンという、つまり天上の花ぞのができるわけなのだ。それでは、これから私の夢の国を見物することにしよう。少しもこわいことはありゃしない。この入口を降りて行くと、海の底を通って、じきに島の上に出られるのだよ。さあ、手を引いて上げるから、私のあとについておいで」

 そこから2人は海中へと降り、ガラス張りのトンネルを歩いていくのだが、途中で人魚に出くわすなどビックリすることだらけだ。さらに島へ上陸すると白鳥人間がいたり、裸の男女がそこらじゅうにいて、森や広場が広がる奇妙な空間が出現する。それらは人間の目の錯覚や遠近法を利用するなどして作り上げた、現代の遊園地や水族館や公園やテーマパークや秘宝館や見世物小屋やサーカスなどがごっちゃになったような「パノラマ島」となっていたのだ!

 私は、この小さな島の中でいくつかの世界を作ろうとくわだてたのだよ。
 お前は、パノラマというものを知っているだろうか。日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した一つの見世物なのだ。見物はまず、細いまっ暗な通路を通らねばならない。そしてそれを出はなれてパッと視界がひらけると、そこに一つの世界があるのだ。いままで見物たちが生活していたのとはまったく別な、一つの完全な世界が、目もはるかに打続いているのだ。
(中略)
 お前には私の言っている意味がわかるかしら。つまり私はこの島の上にいくつかのそれぞれ独立したパノラマを作ったのだ。私たちは今まで、海の中や、谷底や、森林のほの暗い道ばかりを通ってきた。あれはパノラマ館の入口の暗道に相当するものかもしれないのだ。

 さらに2人は変態施設だらけのパノラマ島の奥深くへと入っていくのだが、ついに人見は正体を明かし、計画通りに千代子の首に手をかける…。するとそこから物語は急展開、広げに広げた風呂敷がバーッと畳まれ、「えーっ、マジか!」という衝撃的な終わりを迎える。未読の方にはこの凄まじく、なんとも物悲しい欲深き変態の末路に驚いてほしいので、ここでは詳細を記すことはやめておく。ぜひご一読を!

 本作は連載中あまり好評ではなかったそうだが、後に評価されるようになり、乱歩は「殊に萩原朔太郎さんに褒められたのが、強く記憶に残っている」と自註自解に記している。日本近代詩の父と呼ばれ、詩集『月に吠える』で「私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに」という言葉を残した朔太郎の感性に響いたのだろう。

 そして乱歩というと「土蔵の暗闇の中で蝋燭に火を灯して小説を書く」というイメージがあるが、実際にそんなことはしていなかったという。確かに乱歩は閉所や押入れが大好きで、土蔵に机を運び、電線まで引き込んでみたのだが、極度の寒がりだったため土蔵のあまりの寒さに我慢できなかった、というのが真相だ。

 ではなぜそんな話が広まってしまったのか? それはまだ乱歩が牛込区新小川町に住んでいた1930年(昭和5年)、報知新聞の「名士の家庭訪問記」という記事で、乱歩の書斎は昼間でも太陽の光を入れず、蠟燭一本しかなかったという描写があり、「僕は太陽の光の下では一字も原稿を書くことが出来ない人間なんです。……もっと刺激的な光が欲しい場合には、血のような真っ赤な電球をつけて書くことがありますよ」と乱歩が語った、と掲載されたことにあるようだ。しかしこれは記者による作文であったため、乱歩は激しく抗議したという。

 さらにその後の1934年(昭和9年)に池袋へ引っ越した直後、『週刊朝日』で土蔵内の書斎に座っている写真を撮らせた(前述の通り乱歩はその気満々だった)こともあったようだ。ちなみに乱歩の息子である平井隆太郎氏は「おやじはいつも自分の部屋の寝床で、腹這いになって書いていましたよ」と語っており、そのあまりのギャップには思わず噴き出しそうになる(確かに布団は閉所かもしれない)。その土蔵、乱歩の評論集のタイトルからその土蔵は乱歩によって「幻影城」と命名され、膨大な本や江戸時代の版本、写本などが収蔵されており、現在は池袋の立教大学内に「旧江戸川乱歩邸」として保存・公開されている(一般見学も可)。「乱歩の脳内」といわれる幻影城は、一見の価値ありだ。

 乱歩は今年7月で没後50年を迎えた。最近では宮崎駿監督が乱歩の『幽霊塔』(元はイギリスの作家A.M.ウィリアムスンの作品『灰色の女』で、これを翻訳した黒岩涙香の『幽霊塔』を乱歩が書き改めたもの)が、映画『ルパン三世 カリオストロの城』の物語に影響を与えたと語り、宮崎監督によるカラー口絵が掲載された『幽霊塔』(岩波書店)が出版されるなど、再び注目が集まっている。ぜひこの機会に「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」(現実の世の中は夢であり、夜に見る夢こそ本当のこと、という意味)とサインに書いていたという、怪異で美しい乱歩の世界を体験してみてほしい。

 次回「第5回」は、明治の文豪・森鴎外の作品を紹介します。

文=成田全(ナリタタモツ)

【著者プロフィール】
成田全(ナリタタモツ)
1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集者、漫画編集者などを経てフリーとなり、インタビューや書評を中心に執筆。文学・自然科学・音楽・美術・地理・歴史・食・映画・テレビ・芸能など幅広い分野を横断した知識や小ネタを脳内に蓄積し続けながら、それらを小出しにして日々の糧を得ている。現在は出身地である埼玉県について鋭意研究中。