【連載】大論争!哲学バトル Round 02 殺人は絶対悪なのか?

公開日:2016/4/29



ソクラテス
討論の2ラウンド目では、「どんな殺人も悪なのか」という普遍的なテーマについて議論してみよう。
もちろん、殺人は、良いか悪いかで言ったら悪じゃ。しかし、話はそう単純ではない。
誰かを殺さないと自分が死ぬような状況下や、一人が死ぬことで他の多数の人間の命が助かるという場合、殺人を正当化する人間もおるじゃろう。

まずは次のような実際に起こった事件を例に、殺人の是非を考察してみよう。

生き残るための殺人「ミニョネット号事件」
1884年7月5日、イギリスからオーストラリアに向けて航行していたヨット、ミニョネット号(Mignonette)は、喜望峰から離れた公海上で難破した。船長、船員二人、給仕の少年の合計四人の乗組員は救命艇で脱出に成功したが、食料が完全に底をついたため、船長は給仕のリチャード・パーカー(17歳)を殺害、死体を残った三人の食料にして生還した。この行為は絶対悪だろうか?


ソクラテス
では討論者たちの登場だ。
イギリス功利主義のベンサム。ドイツ観念論のカント。
フランス革命の精神的支柱になったルソー。そして明治の文豪、森鴎外に参加してもらおう。


ベンサム
では、さっそく考えてみよう。この事件の場合、ヨットに乗り組んでいた四人のうち、一人が犠牲になることによって残りの三人の命が助かったと見ることもできるわけだ。
まず私は、人間社会の「善」について考えてみよう。私の考える善とは、社会全体の快楽を増大させることである。よく人は私の思想を「功利主義」と呼ぶが、要するに人間は「苦痛」と「快楽」という二つの君主の支配下に置かれているということだ。


カント
人間が生きる規範は、「苦」と「快」だということですか。


ベンサム
そう。だから、私達は社会全体の総和としての快楽を考えて行動すべきなのだ。
古代ギリシャ以来、多くの哲学者は「快楽」を抑制することが道徳的に善であるとしてきた。
私はその発想を逆転したわけだ。


カント
それは確かに斬新な考えではあるようですね。


ベンサム
社会全体の快楽を増大し、苦痛を減少するという結果によって、最大多数の最大幸福が得られる、こうした結果を重要視することが社会的善なのだ。


カント
つまり、ベンサムさんの考え方を、このミニョネット号事件にあてはめると、ヨットの中の三人という多数が生き延びるために一人を殺したことは、認められるべきだとおっしゃるのですか。


ベンサム
結果としては、そういうことになるかな。


カント
それは間違っていると思います。どんなことがあっても、人間が人間の尊厳を奪いさることはできません。いかなる殺人も許されない。あなたは数字と命を同じものとして扱っていませんか。


ベンサム
しかし、そうすると四人全員が死んでしまうことになるぞ。


カント
いいえ、全員が助かる方法もあったかもしれませんよ。ベンサムさんの言う「最大多数の最大幸福」という結果を先に考えてしまうと、一人を殺して三人が助かるという安易な方法に人間は走ってしまいます。まず理由なき殺人はいけないという前提的な動機が必要です。


ベンサム
理由なき殺人か。私はそうは思わないが……。しかし、カント君の言う動機が大切だということもわからんでもない。ただし、船長達生き残った三人も、パーカー少年を殺したくて殺したわけではないだろう。むしろ社会全体の命の尊厳を考えて行動したのではないだろうか。


カント
どういう意味ですか?


ベンサム
社会全体の命の重さを考えたからこそ、三人という多数の命を救うために一人の命を絶ったという意味だよ。考えてほしい、純粋な動機に基づいたとしても、それで深刻な事態を招いてしまうのでは、善とは言えないのではないかね。


カント
たとえ一人とはいえ、パーカー少年の死は深刻な問題です。
人間の行為・意志の決定に関わる理性を、私は実践理性と呼んでいます。これは、経験によって「この場合、ああした方が良い」「こうすべきだった」と条件によって判断するのではなく、「どんな場合でもこうしなければならない」と無条件に言える純粋な善の意志のことです。


ベンサム
その実践理性がどうしたのかね。


カント
人間は、この実践理性が発する命令に従う義務があるのです。
条件を設定せずに、「殺人はいけない」と思えるのならば、それを遵守すべきです。
「より多くの人を助けるために」などと条件をつけて殺人を許容するならば、「より多くの人が幸せになるために、儲かるために、少数の殺人もやむを得ない」という理屈も通ってしまいます。


ベンサム
それは違うぞ。社会全体の総和として快楽を増大させることが善なのだから、最大多数の幸福を望むならば最小の犠牲は当然、生まれてくる。三人が生き残るために一人の犠牲を受け入れるのも、人間社会のあり方だ。あんたの言うように、例外なく全ての人が幸せになれる社会など、私には想像できないよ。


カント
想像できるか否かは問題ではありません。例外なく、全ての人が自律的に行為する道徳的主体、すなわち「人格」として扱われる社会を、私は「目的の王国」と呼んでいます。つまり、多くが生き残るための手段として、一人の人間を殺害することなど許されない。それは道徳の原理が支配する社会であり、嘘偽りなく、理由付けなく、義務の道徳が支配する社会です。人間は、この「目的の王国」を義務として目指さなくてはならないのです。


ベンサム
まるでおとぎ話のような社会だなあ。


カント
おとぎ話で結構。その目的の王国を目指す上で、例外の余地を残してしまったら、人間は欲望に流されてしまいます。無条件に実践理性の命令に従うことこそが、人間の義務なのです。


ソクラテス
では、このミニョネット号事件の例では、その実践理性の命令は、どのように下されるのかのう。


カント
この場合では、「自分や仲間の命が助かるために」などの条件を付ければ、いくらでも例外が生まれてしまいます。無条件に「殺人は是か非か」と自分の理性に問うた時、「非」と答えが出るならば、あらゆる場合もその答えを守るべきなのです。


森鷗外
ちょっとよろしいかな。カント殿の言うように、限界状態でも人間の尊厳を守らなくてはならないということはわかる。しかし、ご存じの方もいるかもしれんが、吾人は文学者であると同時に軍医、つまり医者である。その立場として「安楽死」の問題を投げかけてみたい。


カント
「安楽死」? どういうことです。


森鷗外
吾人の代表作のひとつ『高瀬舟』という作品に、喜助という人物が登場する。彼の弟は病気の苦しみからカミソリで自殺しようとするが失敗。兄の喜助に自分を殺すよう頼み、喜助がこれを実行し、罪に問われる。果たしてこの殺人は是か非か。吾人に明確な答えがあるわけではない。ただもんもんと割り切れない思いから物語を創ったのだ。


カント
それは「非」です。もしそのような例外を認めてしまえば、弟の命を軽んじることになり、ひいては人類が条件さえあれば命を奪うことを認めてしまうことに繋がります。そうなれば殺人が悪であるという実践理性は無効化してしまう。犠牲の存在はあってはならないのです。


森鷗外
なるほど。聞きしに勝る「堅物」だな。しかし、吾人はその「犠牲」というものが何であるかを、もう少し深く考えるべきだと申しておる。人間は割り切れない苦悩の中で生きている。その前提で喜助の弟の病苦を考えてみるがいい。生きることがどれだけ苦しいことか、繰り返すが、吾人に答えはない。ただもんもんとしているのだ。


ルソー
安楽死は、相手のことを考えての殺人だということですね。私は、少し違った立場から議論に参加したいと思います。人間は自己保存を目指す生き物だというのが、私の考えです。本来、人間は自分の生存を可能とするために、様々な困難を克服しなければなりません。そのための配慮が自己愛です。誰もが自分の命が大事で、それを守ろうとする。自己愛によって、自己保存を図るわけです。


森鷗外
人間の行動原理は、自己愛だけだと言うのですかね。


ルソー
いいえ。もしそれだけならば、この社会はとっくになくなっていたでしょう。人間は、自己愛・自己保存を基本としつつも、他者の犠牲を最小限とするように行動する。それは他者に向けられた自己愛といえます。私はそれを、他人を思いやる「憐憫の情」だと考えます。


森鷗外
「憐憫の情」か……。吾人が論じた安楽死の背景にあるのも、その憐憫の情なのかもしれんな。吾人は常々思っている。現実社会の中では、常に己を貫くのではなく、己の置かれている立場を受け入れるという生き方、すなわち「諦念(レジグナチオン)」をどこかで自覚しなければならないと。己の主張ばかりでは世は成り立たないであろう。


ベンサム
私の主張する「功利主義」について、もう少し補足した方がよろしいようだ。
功利主義とは、決して個人の快楽の最大化ではない。あくまでも社会的快楽の増大を目指すことなのだ。社会は多数の個人によって構成されているのだから、個々人の幸福の総和が最大になる時、社会全体の幸福が実現するのだ。


ルソー
そのためには、少数の犠牲は受け入れるべきだと?


ベンサム
「最大多数の最大幸福」のためには、そのための犠牲は受け入れるべきだと、私は考える。ルソー氏の言うように人間二人の間にあるのは自己愛や自己保存なのかもしれないが、社会的存在である人間は、社会的利益、集団の利益の増大を考えなければならないのだ。


ルソー
う〜ん。人間が他者を気遣うということは、ベンサムさんのおっしゃるような社会的利益の増大などという画一的な理念ではなく、もっと身近なものではありませんか。


ベンサム
例えば?


ルソー
人間には「憐憫の情」がある。それを認めるならば、犠牲の存在を前提として考えるということはあり得ません。パーカー少年の命を見過ごすことなどできないはずです。やむを得ない犠牲などという言葉で、彼の命を軽んじることは許されない。


ベンサム
軽んじてなどいない。それが社会的利益の増大に資するならば、さらには、社会全体としての恐怖の度合いが減少するならば、受け入れざるを得ないと言っているのだ。


ルソー
そうでしょうか? ヨットに乗っていた船長ら三人は、社会的利益の増大などではなく、結局は利己心のみに支配され、自分が生き延びる
ことだけを考えていたのではないですか。


カント
私も同感です。彼らは自分の欲望に負け、パーカー少年の殺害に及んだのです。
私達がもし生物の本性や本能のままに生きるのであれば、人間は動物と同じになってしまいます。
経験的欲望(傾向性)にとらわれて実践理性の命令に従わないのであれば、不道徳のそしりはまぬがれません。


ベンサム
カント氏の主張は、つまるところ、どこまでいっても延々と理想的な「道徳」の域を脱し得ないようだね。


カント
いえ、極めて現実的です。実践理性の道徳的な命令に従うことによって、つまり自分で打ち立てた規則に拘束されることによって、初めて人間は「自由」になれるのです。安易さを排除し、常に義務に自律することこそが、自由なのです。


ソクラテス
よし、ここまでじゃ。
一言に殺人といっても、置かれている状況や、動機と方法、そして誰を何の目的でなどといった、関係性を考える必要があった。
ベンサムの「社会的利益」、カントの「命を守る義務」、鷗外の「安楽死」、そしてルソーの「憐憫の情」、いずれも説得力があった。
それぞれ別の主張のように見えて、実はどの主張も「自分だけのこと」を考えているのではなかった。ヨットの乗組員達も、決して自分の利益だけを考えて、自分勝手な殺人をしたわけではなかろう。
こうしたことを踏まえるならば、人は一人では生きていけないという「基本」に立ち返り「吟味」を続けることになるじゃろう。

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<著者プロフィール> ●畠山 創:北海道生まれ。早稲田大学卒業。専門は政治哲学(正義論の変遷)。現在、代々木ゼミナール倫理、政治・経済講師。情熱的かつ明解な講義で物事の本質に迫り、毎年数多くの生徒を志望校合格に導く。講義は衛星中継を通して約1000校舎に公開されている。「倫理」の授業では哲学的問いを学生に投げかける「ソクラテスメソッド」を取り入れ、数多くの学生に「哲学すること」の魅力・大切さを訴え続けている。

岩元 辰郎●フリーイラストレーター。法廷バトルアドベンチャー『逆転裁判』シリーズや『バクダン★ハンダン』などのゲームや、アニメーション『モンスターストライク』等のキャラクターデザインを担当している。