【第4回】ちゃんもも◎『刺激を求める脳』/幸正#2

文芸・カルチャー

2018/8/28

 新生活にまだ新鮮さが残っていた頃、僕は少し後悔していた。夢にまで見た生活は、思っていたものとかなり違っていたからだ。

 知り合いが一人もいない。その辛さが理解できていなかった。

 はじめはそれも新鮮でよかったのだが、せいぜいが一、二週間。時折交わす立ち寄った店の店員との会話以外に人と話す機会がないのだ。行ってみたいところもやってみたいことも山ほどあったが、一人でそれをする度胸を僕は残念ながら持ち合わせていなかった。

 若干18歳、垢抜けない地方出身者の弱みだ。街を歩くと、どいつもこいつも「東京の人」に見えてしまう。実際はそのうちの7割ほどが地方出身者、またはその日たまたま地方から来ているのだと頭では理解していながらも、どうしたって卑屈になってしまう。スーツケースを引いた団体を見るとどこかホッとしてしまう自分がいた。

 東京という想像していたよりも遥かに大きかった大都会に慣れるためには、このままではいけない。頭ではわかってはいるのだが、如何せん何からはじめていいのかもわからず、アルバイトもしていなければ、気の会う友人も一人としてできていなかった。

 もちろん朝起きて大学には行くし、それ以外に何もすることがないのだから講義も真面目に受けた。でもそれだけだった。毎日その繰り返しが続くだけ。こんなことなら彼女と別れずに、一緒にどこか遠くの大学に通っていたが随分マシだった。頭から煙が出るくらいに悩んでいた事すべてが、一気に馬鹿馬鹿しくなった。

 僕は馬鹿だ。なんで携帯電話を置いてきたんだ。

 心の底からあの日の自分を思いっきり殴ってやりたいと思った。気持ちが収まらないので、仕方なく今の自分を殴った。

 思ったより痛い。

 あれだけ夢見ていた東京での一人暮らし、僕はこんなことばかりしていた。

 新入生を勧誘するサークルの数が少しずつ減りはじめた頃、突然おじさんだかお兄さんだかよくわからない変な男が、その手に悪趣味なチラシを持って現れた。

 不意に受け取ってしまったそのチラシには、デカデカとこう書いてあった。

『演劇サークルで、君も一緒にトゥギャザーしないか? byムー大島』

 僕は思わず噴き出した。いつの時代から拝借してきたセンスなのだろう。

 ムー大島というのは見るからに怪しいこの人のことなのだろうか。それとも、この人の後ろにはもっと怪しい何者かが控えているのだろうか。

 胡散臭いにも程があったが、東京に来てからというもの、退屈という二文字が常に脳内を支配し続けていたので、久しぶりに得た刺激に喜びを感じたのも確かだった。何の迷いもなく、怪しさ満点なその男に僕はついて行った。

 演劇になんてまったくと言っていいほど興味はなかったが、やっと東京に知り合いが出来るかもしれないということに対して期待に胸を膨らませていた。

 そのまま大学近くの少々古臭い、昭和を思わせるレトロな感じの喫茶店に連れて行かれ、コーヒーを一杯ずつ注文し、何を話すでもなくただじっとコーヒーが来るのを待っていた。

 少しすると、淹れたてのコーヒーのいい香りをさせながら、初老の渋めのマスターがトレイに乗せたそれをテーブルの上に置き、カウンターの中に消えていった。

 ついてきたはいいが、いつまでも無言では困るし、言い方は悪いがこんな一歩間違えれば変質者と間違われそうな男とお見合いをしに来たつもりはない。とにかく、気になったことをいくつか質問してみたが、目の前に居るこの人は何も答えず、ただ曇ったその目で僕をじっと見ているだけだった。

 ん?

 もしかして演劇サークルって僕とこの人だけなのか? サークルというくらいだから他にもう何人かいるものだと思っていたのだが。

 目の前にいる変な人、仮にムーさんとしよう。砂糖もミルクも入れず、ブラックのままのコーヒーをすすりながら、ムーさん(仮)はおもむろに口を開き、呟いた。

「……張り込み中の刑事」

 そうボソッと言い放った数秒後、それまで曇っていたムーさん(仮)の目に光が宿り、なにやら話しはじめた。同時に安定していた無表情も一気に表情豊かになり、時には眉間にしわを寄せて悔しそうな顔をしてみたり、チラッ、チラッと真横に目線をやったり、何を言っているのかよくわからなかったが、とにかく何かをし始めた。

 戸惑いながら訝しげにそれを見ていると、ピタッと動作を止め、

「……張り込み中の刑事」

 と、だけまたボソッと言い、続けた。

 よくよく聞いていると、ムーさん(仮)の言っていることが張り込み中の刑事の会話のように聞こえなくもない。

 これはひょっとして、無言で僕にも張り込み中の刑事をやれと言っているのだろうか。そうならそうで、そう言ってくれればいいのに、と思いながらもこうなってしまったのも何かの縁、僕は張り込み中の刑事を想像しながら持てる限りの拙い知識をフル活用し、やぶれかぶれでムーさん(仮)についていった。

「なかなかホシが現れねえなあ」

「ちっ、感づかれたか!」

 とムーさん(仮)が言えば、

「先輩、そこの商店で聞き込みついでにアンパンとコーヒー牛乳買ってきます!」

 などと返した。

 その会話はまったくもって支離滅裂だったが、とにかく自分なりに精いっぱい張り込み中の刑事になりきった。

 そこそこ大きな声だったのにも関わらず、客が僕たち二人だけだったからか、マスターは文句ひとつ言わず、ニコニコしながらこちらを眺めていた。

 しばらく続いたそのやりとりがひと段落すると、マスターはすでに空になっていたカップにコーヒーのおかわりを注いでくれた。

「三谷君がここに来てくれるようになってから、僕は暇を持て余すことがなくなって嬉しい限りだよ。またこうして寸劇が観られるなんて思ってなかったからね」

 そう言い残して、マスターはカウンターの奥に消えていった。

 三谷君? この人、三谷さんていうの?

 なんだこの人、大島でもなければムーでもなんでもないじゃないか。ムーは仕方ないとしても、せめて大島さんではいて欲しかった。やはり凄いセンスをした人だと思いながら、目の前のこの人に、僕は少し興味を持ちはじめていた。

 今注がれたばかりの湯気が立つ物凄く熱いであろうコーヒーを一気に飲み干し、ボソッと「じゃあ、また明日、ここで」と言い残し、三谷さんは勘定もせずにどこかに行ってしまった。仕方がないので二人分の勘定を済ませ、僕も店を出た。

 何なんだよ、あの人は。

 しかし、張り込み中の刑事のフリはそこまで面白いものではなかったが、久しぶりに人と密に接したせいか、とにかく楽しい日ではあった。

 また明日も来てみよう。そう思った。

 それ以来、僕たちは毎日その喫茶店に行き、来る日も来る日も熱心に『何かのフリ』をし続けた。消防士、落語家、漫才師、詐欺師、泥棒……時には『妊婦』なんてのもあった。男同士の妊婦のフリは、他人の目からするとさぞかし不気味に見えただろう。そのときばかりはいつも笑顔なマスターの顔も、少しだけ引き攣っていた。

 不思議なもので、そんなことを続けていくうちに、フリをしている『何か』の視点で物事を考えたり、なりきったりすることが自然に出来るようになっていった。

 他人から見て、芝居の稽古をしているように見えるまでには、そんなに多くの時間は要さなかった。面白がって話しかけてくる人もいたりして、僕たち二人だけの演劇サークルは、興味を持ってくれた人々を『なりきった何か』の役で言葉巧みに狡賢く巻き込んでいき、一人、また一人と徐々に劇団員の数を増やしていった。

 大学から近いその店の客はほぼ同じ大学の生徒だった為、いつの間にかたまり場のようになり、座る席も最初の2名席から4名席に、4名席から団体用の店内で一番大きなテーブルになり、それからも人数は増え続け、気づけば僕らで埋った店内の客全員が挙って「何かのフリ」をしているという異様な光景になっていた。

 劇団員が15人を超えた頃、そろそろこの劇団にも名前が必要だろうということになり、あの胡散臭さの塊のような例のチラシと、それを作った人のセンスのなさに最大限の敬意を払い、そこから取って『劇団ムー』と名づけた。

 呆れるほどふざけた名前だったが、当時すっかり枯れて乾ききっていた僕の心にミズを注いでくれたのは、紛れもなくあの悪趣味な安っぽい一枚の紙切れだった。

『劇団ムー』の旗揚げの瞬間だった。

写真モデル=シイナナルミ
撮影=飯岡拓也
スタイリング=TENTEN