【第7回】ちゃんもも◎『刺激を求める脳』/幸正#3

文芸・カルチャー

2018/8/31

 稽古場を大学の構内に移した頃、僕は二つ歳を重ねていた。

 何の地盤もなかったこの街にも後輩ができた。劇団も人数を少しだけ増やし、もうあの喫茶店に全員では入りきれなくなっていた。

 ただの趣味ではもったいない。そろそろ、思い切って小さめの劇場でお客さんの前で芝居をしてみよう。ここまでは『何かのフリ』を集団で続けていただけだった。台本を作り、台詞を覚えて、ちゃんと演出を入れて演劇をしてみようではないか。

 勿論、不安はあったが、いつまでもこのままでは後にも先にも進まない。なんとか下北沢の小さな劇場を押さえ、腰の重い我らがムーさんの尻を叩いて脚本を書かせた。

 ムーさんは相変わらずのセンスだったが、なんとか形にはなった。今思うとひどい出来だったのだが、あれはあれで面白かったと思う。なにしろ、決まったセリフはほとんどなく、内容にだけ沿ってあとはほぼアドリブなのだ。

 しかし、これが意外にウケた。

 むしろ、普段の僕たちを冷ややかな目で見ながらも、同じ大学内に結構な数の隠れファンがいたことが驚きだった。

 節目、節目で笑いが起こり、もはや純粋に笑ってくれているのか失敗を笑われているのか、舞台上にいる僕には見分けがつかなかった。

 たった一日だけの劇場公演は満員御礼。次の公演はいつなのかと問い合わせの数々。粗末な舞台、演出に素人に毛が生えた程度のまだ役者とも言えない僕たちの芝居を、みんな口々に面白かったと言ってくれて嬉しくなかった筈がない。

 僕はというと、ムーさんを除いて一番の古株だからということで主演にしてもらったが、緊張で内容は飛ぶしセリフは噛むしで散々な結果だった。そのときの僕は、ライオンに発見されたときの草食動物のような情けない顔をしていただろう。

 それでも不思議なことに、僕の人気は他の劇団員より高かった。やはり、主役というのは得な役割だ。終幕後に掛けられた声の数がぜんぜん違っていた。

 初公演の後は、団員全員で朝まで浴びるように酒を飲み交わし、次の日の起き抜けに待ち構えている壮絶な二日酔いという名の悪魔に怯えることもなく、喜びと達成感に浸っていた。

 この頃には当初の予定のとおりに、アルバイトもしていたし、彼女もいた。

 東京出身の彼女と付き合うことで自信を持ち、地方出身者の垢抜けなさはとうに消えていた。

 東京に来て二年が経ち、ようやくこの街にも基盤が出来はじめたそんな折、実家に友人から結婚式の案内状が届いているとの連絡があった。

 多少の躊躇はあったが、過去はすっかり振り切っていた。あれから二年も経っているのだから、あの街の人々から僕の記憶も薄れているだろうし、そろそろまた交流を持ちはじめてもいいと思っていた。

 あの日のまま記憶の中で立ち止まってしまっている彼女の事も気になっていた。もし会えるようならあの日のことをちゃんと謝りたかった。僕の独りよがりで傷つけてしまったこと、そしてなにひとつ恩返しができなかったことを。

 実家に連絡を入れ、年明けに帰省する旨を伝えた。

 普段あまり連絡をする方ではなかったが、言葉だけが温かく、反応がやけに薄い。親孝行は出来るときにしておこうと思った。

 乗っている電車の中から街の光景が目に映る頃には、懐かしい気持ちでいっぱいになっていた。

 びっくりするほどなにもない。よくもまあ、こんな街で飽きもせず18年間も暮らしたもんだ。とはいっても、楽しいと感じていたのは最後の数ヶ月くらいのものだったが。

 懐かしさを満喫するために駅からは歩いて行くことにし、道すがらだんだんと実家が近くなるに連れて次々と懐かしい顔に会った。

 みんな一様に帰ってきたことに驚き、なぜかやたらと身体の心配をしてくれた。

 僕はてっきり責められるとばかり思っていたので少し拍子抜けしていた。彼女を裏切ったことが明るみに出て、「この人でなし!」と罵られるくらいのことは覚悟し、いろいろと言い訳も考えていたのだが、誰の口からもその話は出てこなかった。

 高校を卒業した後の元同級生とはこんなものなのだろうか。僕が東京にいるということも聞かれないので僕から言っていたくらいだ。ただ、みんなそれに関しては当たり前のように知っていたが。

 世間話もそこそこに、足早に実家に向かう。置いてきた携帯電話、そこには今もその当時の連絡先のデータがそのまま残っている筈だ。

 どうしても、彼女に会っておきたかった。そもそも嫌いで別れた訳ではないのだから、会いたくなるのも当然だし、なによりもまず頭を下げて謝りたかった。許されたかった。この街に残してきた心のモヤモヤを、この機会に解消しておきたかった。

 時々は連絡を取り、こうして実家に帰省したタイミングで会うことができればという下心もあった。

 ただいま、と玄関のドアを開けば、家を出てから時間なんて少しも経っていないかのようにお帰り、と返ってくる。

 荷物を玄関に置きっ放し、階段を駆け上がり自分の部屋に向かう。彼女との思い出が詰まった机の引き出しを雑に開け、携帯電話を探す。

 だが、そこにある筈の物がない。引き出しをひっくり返してみるが、どこにもない。

 おかしい。あれだけ処分はするなと伝えたのだから処分することはありえない。でも無いものは無いのだから、仕方がない。

 夕飯の支度をしているであろう母親に携帯電話の行方を尋ねようと階段を駆け下りている途中、不意にそこに居るはずのない人の顔が視界に飛び込んできた。

 彼女がいた。少し髪が伸びたくらいで当時と変わらない彼女が。

 フフっと少しはにかみながら、その黒縁メガネの奥の両目で「久しぶりね」と言いながら僕を見ている。

 言葉が出なかった。驚きのあまり完全にフリーズしている僕を見て、彼女は指を刺して笑った。

「なんて顔をしているのよ」

 そう言いながら相変わらずの失礼で遠慮のない笑顔で僕を見ていた。

 いや、そっちこそ何でこんな所にいるんだよ、と言いかけながらも、とりあえずそれを飲み込み、こうして会うのが二年ぶりだと思わせないほど自然に彼女と話をした。

 どうやらこの子はあの日、待ち合わせ場所に来ない、どうせ寝坊してあたふたしているであろう僕を迎えに来て、そこで母からすべてを聞いたらしい。

 その場で大泣きするものだから、うちの母親も放っては置けなくなり、それ以来ちょくちょくこうして遊びに来たり、母と連絡を取り合う仲になっていたそうだ。

 つまり、僕が今日こうして帰ってくるのをすでに知っていたということだ。彼女の顔を見た瞬間に感じた違和感が少し薄れた。

 とにかく、親の前でするには恥ずかしい話なので一緒に僕の部屋に行く。まずはちゃんと謝らなきゃいけない。何事も無かったかのように接してくれてはいるが、過去にしてしまった事は変わらない。素直にごめん、と謝った。

 必死にあれこれと言い訳をする僕に、もういいよと微笑みかける彼女。なんていい子なんだろう。約束の時間に少し遅れたくらいで一日中へそを曲げている東京の彼女とは大違いだ。

 それでも僕の気持ちは収まらず、言い訳を続ける。

「どんな理由があったってあんな別れ方をするべきではなかったと思う。心から反省してる」

 そう口にした瞬間、彼女の表情が豹変した。今まで見たことのない、嫌でもその怒りが感じ取れる表情に。

「別れたって……どういうこと?」

 酷く険しい目つきで僕の目をじっと見つめながら、耳を疑うほど低い声で確かにそう言った。

 答えに困った。

 僕は彼女を置いて、ひとりで東京に向かった。試験の後もそのまま連絡を絶ったし、それ以来今日まで一度も会っていない。

 僕は当然のことを言っただろう? 別れたんじゃなかったのか?

 ……? ちょっと待てよ。

 僕が最初に東京に行っていたその間、この子は母とはもうすでにちゃんとした面識があり、連絡先の交換までしていた筈だ。未だに母とは良好な夫婦仲を保っている親父もそのことを知らない筈がない。なのに、二人ともなにも言ってこなかった。試験のあとに帰ってきたときも、東京に旅立ってからも。

 それに、散々口止めはしたが、彼女とそこまでの仲になっているのなら今の僕の連絡先をこっそり教えていてもなんの不思議もない。うちの母親の性格を考えると、むしろ知っていて当然だろう。

 それなのに、この子は連絡なんて一度もしてきていない。なによりも、今この子がしている質問が一番不可解だ。

 次から次へと疑問と違和感が湧き出てくる。

「私、別れたつもりなんてないけど」

 じっと目を見つめたまま、そう言い放つ彼女に少し背筋がゾクっとした。

 女性というものは、二年も音信不通になっている男を未だに自分の恋人として想い続けられるものなのだろうか。

「だから、観に行ったんだよ。下北沢の劇場にも」

 そう言って彼女は今にも泣き出しそうにフッとその表情を変えた。

 もう訳がわからない。彼女の言っていることが理解できない。

 劇団のことは親にも言っていない。

 あまりにも刺激が強すぎて混乱した僕の脳はあまり正常に機能しているとは言い難かったが、それでも聞きたいことが山ほどある。

 なぜ君が、それを知っているんだ。

 それに、来ていたのなら間違いなく気づいたはずだ。僕らの劇団が借りる劇場は、観客の顔がわからなくなるほどの規模ではない。

「ほら、見覚えあるでしょう?この顔……」

 彼女は髪をかき上げてうしろでまとめ、メガネをはずしてその顔を僕に見せた。

 居た。確かに居た。

 それまでの彼女とは印象がまるで違うこの顔をした人が確かに劇場にいた。その印象は、東京に残してきた彼女によく似ていた。

 なにがなんだかわからないまま、僕の背筋は凍りつきはじめていた。

 どういう経緯でそこに居たのかは知らないが、君だと気づかない僕に久しぶりだねと声をかけてくれたってよかったじゃないか。

「なんなら、幸正くんに握手までしてもらったのよ?」

 なんなんだ。何が目的なんだ。なんのためにそんなことをした。

 いろいろな疑念が頭の中を駆け巡る中、ガチャっと音を立て、不意に、勢いよく部屋のドアが開いた。

 部屋のドアが開いた瞬間、心臓が止まるかと思ったが、

「子作りするにはまだちょっと早いのよー」

 と言いながらあっけらかんとした母親がニヤついた顔で部屋に入ってきた。夕飯の支度が整ったらしい。もう少し気を使って静かに呼べないものか。

 それまでしていた話の一切を無視したように、彼女はニコニコしながら母に従って居間に向かった。

 気が気でなかった僕は少し心を落ち着かせようと、ポケットからタバコを出し火を点けた。

 考えたところで何も答えは出ない。真相は彼女しか知らないのだ。

 なんとか平常心を保ち、夕食を終えて彼女を送っていくことになった。

 両親は人の気も知らずに泊まっていけと最後まで言っていたが、僕がなんとかそれを押し切り、今日は帰ってもらうことにした。

 歩きながら、どう話の続きを切り出そうかと思案していたが、口を開いたのは彼女のほうからだった。

「気になってしょうがないんでしょ」

 当たり前だ。正直に言えばこのまま東京のアパートにヘリコプターに乗ってまっすぐ帰りたいくらいだ。

「おかげさまで試験会場には間に合わなくて試験を受けられなかったし、他の大学に行くこともあまり気が乗らなかったから、私、一年浪人したの」

 とっくに電車に乗っていなければいけない時間に、我が家の玄関先で大泣きしていたのだからそれは当然だろう。

 永くなりそうな話を聞くには時間が足りないと思い、自販機でホットコーヒーを二本買い、一本道にポツンとあるシャッターの降りた商店の店先にあるベンチに腰掛けた。

「私、今東京にいるの」

 缶コーヒーから立つ湯気に視線を向けたまま彼女は言った。

 なんだと。

 もうよくわからないことが多すぎて、頭の中が一気に真っ白になっていった。

 大学受験を棒に振ってしまったその後の彼女は大変だったようだ。こんな田舎町には似つかわしくない豪邸に住むお嬢様だった彼女は、しこたま親に叱られ、浪人するからにはそれなりの大学に行ってもらわないといけないということになり、誰でも聞いたことのある東京の大学に通っているらしい。しかも割とご近所だというから驚きだ。

 せっかく東京に行くのだからと、僕の住所の近くに部屋を借りてそこから通える大学を受験しようと早い段階で決めていたという。

 浪人中は親になかなか外にも出してもらえず、外部との交流も禁じられていたために僕に連絡することもままならなかったのだそうだ。

 お堅い彼女の両親の監視をすり抜けてこっそりとうちの母親と交流を続けていたのは相当の努力を要しただろう。

「本当は着いてすぐに幸正くんのお家に行ってびっくりさせようと思っていたんだけど、いざとなったら勇気が足りなくて。それに、私その時はまだなにもしてあげられてなかったし」

『なにもしてあげられてなかった』とはどういうことだろう。

 考えているうちに彼女は続けた。

「でもびっくりしたよ。私がまだなにもしていないのに幸正くんは人気者になっていたし、気づいてくれるかなと思って幸正くんが通ってる喫茶店に行ってみたら、お友達と二人でずっと妊婦のフリをして盛り上がってたから」

 それを見られていたのか。穴があったら入りたい気分とはこういう気分のことを言うのだろう。

「おまけに私のことなんて忘れてしまったみたいな顔をして、しっかり新しい彼女までいるしね!」

 そう言って頬を膨らませながら、僕の肩をポカポカと叩いてくる。

 かわいい。かわいいけどなんだか胸騒ぎがする。

「私は小学生の頃から幸正くんを見てるのに、つい最近知り合ったばかりの女の子が幸正くんのこと何も知らないのに、私がどれだけ幸正くんに尽くしてきたかも知らないのに、私がどれだけお父さんに嫌なことをされるのを我慢していろいろお願い事を聞いて貰ってたのかも知らないで……」

 言いながら彼女の顔はみるみるうちに般若の形相に変わっていった。

「お父さんが持ってるサッカーチームに幸正くんが入ってきてくれたときから、お父さんにお願いしてレギュラーにしてもらったし、チームメイトの子たちには幸正くんが活躍できるように頑張ってもらったし、中学校に行っても、高校に行っても、大学に行ってもそうだと思ってたのに……」

 またフッと泣き顔に変わった彼女の両目からは大粒の涙が零れ落ちていた。

「幸正くんがどこかに行ってしまおうとして、私を置き去りにしようとなんてするから、全部おかしくなっちゃったんだよ! 幸正くんに近づく子のお父さんたちを苛めて貰うのに、私がどれだけ我慢したと思ってるの? それでも私一人じゃ恥ずかしくて勇気が出なかったから、幸正くんの周りの女の子たちが幸正くんに抱かれるように仕向けてからも、ずっと我慢してたんだよ? 好きな人が他の女の子を抱いてるなんて気が気じゃなかったんだから!」

 彼女が僕の胸倉を掴んでそう捲くし立てている間、僕は自分でも信じられないほど醒めた目で彼女の目を見つめていた。

 この子は、おかしい。根っこから壊れてしまっている。

 幼い頃からその年齢に不相応な権力を子供の理屈で好き勝手に使える身分になるとこうなってしまうのだろうか。

 かろうじて言っていることの内容は頭に入ってくるが、僕が知っている常識からあまりにもかけ離れすぎていてどこからおかしくなっているのかもうわからなかった。

 あんなに僕を苦しめた夢物語の仕掛け人は彼女だった。

 僕に彼女ができなかった理由も、その後、みんな目が死んだ魚のようになっていたのも彼女が原因だった。この街に対して持ち続けていたネガティブイメージそのものが、彼女自身だったのだ。

 なんだこれは。

 笑えるのは僕の出来すぎた人生ではなく、それに気づかず思い上がってピエロになっていた僕自身じゃないか。

 彼女がお嬢様育ちのくせに処女ではなかったことも、すべてを打ち明けたときの彼女の品のない笑い方も、その理由がよくわかった。

 まっしろになった頭の中と反比例するように、刺激を受けすぎた僕の脳は普段に比べてよく回転し、やけに冷静に話の要点を押さえていた。

 それと同時に、少しずつ僕の感情は消えていった。そして、まだグスグスと半狂乱のまま鼻をすすり上げている彼女をそっとやさしく抱きしめた。

 キスをして、そのまま雪の降り積もる中、SEXをした。

 頭の中がまっしろで、感情が欠如したまま、いやというほどそそり勃ったそれを何度も彼女に叩きつけた。

 その後、彼女との交流は東京に戻ってからも続いたが、僕に訪れた転機と同時に終わった。僕もあまり興味を持たなくなっていたし、それよりも彼女の父親が大学卒業と同時に半ば無理矢理に連れ戻したと言った方が正しかった。

 後に聞いた話だが、彼女の父親はその辺り一体を仕切る反社会的団体の偉い方という裏の顔も持ち合わせていたらしい。

 彼女には、本気で僕と駆け落ちをするつもりもあったのかも知れない。彼女に対して歪んだ愛情を持ち、日頃虐待を繰り返す自らの父親から逃げるために。今となってはすべてが藪の中に消えてしまったが。

 それと前後しながら僕の人生はまたも大きく変化していく。話は少し遡るが、今まさに起きている本題に直結していく。大事なものが次から次へと音を立てて崩れていく。

 悪夢は追いかけてくる。まるで前世から背負ってきた、カルマのように。

写真モデル=シイナナルミ
撮影=飯岡拓也
スタイリング=TENTEN