【第10回】ちゃんもも◎『刺激を求める脳』/真理子#3

文芸・カルチャー

2018/9/3

 ポツポツと降る雨の中、女はタクシーを降りて、すぐ目の前のビルのエレベーターのボタンを押した。降り際のタクシー運転手の物珍しそうな好奇の目にも意を介さずに目的の階まで登っていく。ビルの最上階に入った芸能事務所の扉を開き、我が物顔で奥に進んで行く女を誰も止められずにいた。皆一様に、なにかしら得体の知れないものを見てしまったかのような表情で「それ」を見過ごしながら唖然としていた。

「心配を掛けてしまったかしら、ごめんなさいね」

 女は、プレートに社長室と書かれた部屋に入り、その言葉とは裏腹に悪びれもせずそう言った。

「お前、どうしたんだその顔……」

 白髪で頭頂部が禿げ上がった初老の男は、そう言いかけて言葉を飲み込んだ。

 呆然としながら、どう声を掛けていいものかわからず、様々な言葉が頭に浮かんだがそのどれもがその光景には相応しくなかった。浮かんでは消えるありきたりな言葉達を通り越え、もの悲しくも強い眼差しで男は言った。

「お前、仕事のことは心配しなくていいから、少し休め」

 女は男が何を言っているのかわからないというような顔をしながら、捲くし立てた。

「休むってどういうことよ! そりゃあ、今まで何日も連絡を無視して悪かったわよ! でも、あなた達、誰のおかげでここにいられると思っているの!? 私のおかげでしょう!? 私がいなければこんな事務所、とっくに潰れているはずじゃない!」

 そんなに大きな声が出るのかと驚いてしまうくらいの金切り声だった。

 女が静かになるまでしばらくかかったが、男は冷静を保つよう努めながら女を取り押さえた。

 もはや話の通じる相手ではない。男は自らの会社の看板女優のキャリアに一旦終止符を打つことにした。断腸の思いだったが、ここまで壊れてしまっていてはもう自分にはどうしようもない。あのときのように、病院に入れる他に

女を立ち直らせる方法はないだろう。女優としてはかなりのダメージを負うだろうが、仕方が無い。

 そう思いながら、せめて今一度、女が自ら目を覚ますことを願い男は声を荒げた。

「お前! 今の自分の顔を鏡でよく見てみろよ! 人間様の顔じゃねえ! まるで化け物の貌だ!」

 女は上下とも乱れきった服装に、小さな子供が画用紙に色とりどりのクレヨンを塗りたくったようなメイクと、まるでいつもの容姿を留めておらず、その容貌はひどく異様なものだった。

 言い終えるか終えないかのタイミングで女は背を向け、「もういいわよ。またくるわ」

 そう言い残して部屋を出て行った。

 髪はボサボサで顔は化け物じみていたが、その歩き方はトップモデルさながらの背筋がピンと伸びた美しいものだった。

「自分の顔をまともに見られるようになるまでは二度と来なくていい!」

 男の声はすでに女には届いていなかった。

「なんてことだ……キレイな顔が台無しだ……」

 そう呟きながら、男はガックリとうなだれながら床に膝をついた。やっぱり壊れたまんまだったんだな。懺悔するかのように涙を流しながら、男は女の過去を思い出していた。

写真モデル=シイナナルミ
撮影=飯岡拓也
スタイリング=TENTEN