『働くおっぱい』第8回 AV女優は「恋愛NG」/紗倉まな

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更新日:2018/11/8

 全てを曝け出すよりも、少し隠していた方がエロい。

 見えそうで見えないもの。それは人々の好奇心を煽り、妄想を駆り立てていく。

 全裸を表現技法の1つとして取り扱っている“働くおっぱい”には、そういった按配が常に求められるので、最終的には言動にまで、事細かい配慮をしようと努めたりもする。

 直接的に卑猥な言葉を避けて、性と結びつかなそうな健全な言葉をエロの比喩表現として用いたり、シーンの撮影でもすぐに脱がずに、徐々に肌身の露出面積を増やしてみたりと試みる。

「ほう……この顔つきからするときっとこんな乳輪なのでは…」などと人々の期待を上げていくことを、“良きもどかしさ”として認識している節がある。

 ちなみに、見飽きられていることは重々わかっているけれど、私もいまだにそうしたことをやっている。見慣れているオチを毎度繰り返すだなんて、なんだかダチョウ倶楽部の熱湯風呂プレイと似ている。(はじめから熱湯風呂に浸かっていては、エロでいうところの“はじめから脱いでいては”、楽しさが激減するという共通項を、秘かに感じている。)

 比較的ニッチであった「着衣セックス」というプレイも、最近では需要が増して、「隠すエロ」として定番の人気を獲得しているのも、「隠していた方がエロい」という定説の一例だろう。そしてモザイクというフィルターは、「本当にセックスをしているのかどうか」を妄想させる、“隠しの真骨頂”でもあるわけだ。

 しかしながら全裸を余すことなく見せつけ、肉体を表現技法として存分に曝け出したとて、その人の心までは見えるのだろうか。見えているのでしょうか。そんなことを最近、よく考えるのです。

「セックスをしているのを人に見せるだなんて恥ずかしくないんですか?」という、よく投げかけられる質問に返答するとすれば、「裸よりも、心を曝け出す方がよっぽど恥ずかしくないですか?」と逆質問することになってしまうと思う。

 衣類を脱ぎ去て、自分の裸の値段を下げてでもAV作品に出演し続けている様は、あまりにも強烈なインパクトを与える故、「裸体である」「セックスをしている」という点ばかりがフィーチャーされがちだったりする。

 そのおかげで生み出される盲点こそが、「心は別にある」ということなのです。実際のところ、どう思っているのか。何が本心なのか。それを見透かされる方が、よっぽど怖い。

 例えばセックス中、「あ~~鼻が痒いけどかけね~~~」と思うことはあるわけだ。「そういえば今日の夕方、Amazonの配達が来るんだったな……。さっさとセックスを終わらせなくてはならない……」そんな現実的なことを、真下で喘いでいる好きな女性が考えていることだってあるでしょう。

 ものすごく感じているように見える映像内での女性が、「この絡みが終わったらお昼~~」とか、「焦らしながら脱ぐ作業面倒くさいなーどうせすっぽんぽんになるのに。はい、右乳首。そして左乳首」なんて具合でもって心のうちで炸裂していたら、合体も、一気に冷めてしまうわけである。

「どうしてAVデビューしたのですか?」と尋ねられたとき、「ずっとこの職業に興味があった」と私は答えた。「女性の裸体が美しいと思った」とも答えた。これは確実な本心であるけれど、「これは言ってはならないな」と思うような本心だって少なからずあって、何とは言わないけれど、それをササっと心の奥の方に隠すこともあったりする。外向きの顔と家での顔が違うように、親しい人と仕事の人との話し方が違うように、高速回転で脳内を巡る自分自身の忖度が、「これを言ったら得をする、損をする」と本心に値付けをしていくのだ。裸の価値が下がっても、人間としての価値だけは、誰にも決めつけられたくない。変な抗いではありますが、まぁ、そんなもんなのです。

「きれいごとばかり言ってるけど、AV出て、本当はお金が欲しかったんでしょ?」「セックスが心の底から好きな淫乱女じゃん」と思う人も、なんだか多いそうで。“金に困った淫乱女”というウルトラ古典的なレッテルが世間によって付け足され、勝手に“闇人間”属性に配置されたりする。そのおかげで歪んだ優越感を得ては興奮度を高めている人というのが、掲示板やネットに書き込まれた変わり映えのない文言を眺めてみても、何気に多いのかもしれないなーと思っている。

 AVはそう、ファンタジー。セックスに、フィクションとノンフィクションがあったとしても、そのどちらかを見極めさせないことは徹底する。そういった意味での、ファンタジー。「これってきっと筋書きがあるんだろうな」「でもここは筋書き通りではないんじゃないか」という、現実と非現実の境目=ブラックボックスの余地は、何事にも必要だったりするのではないだろうか。そして、「妄想を駆り立てる遊びの部分がいかに大切か」という議題を設けてみれば、実は、これはAVやエロだけの話ではないということにまで展開されていくのである。前置きがだいぶ長くなってしまったけれど、私がここで話したいのは、「恋愛」という普遍的トピックスだ。

 テレビをつけると、そこにいつもいるような人。ネットで拡散される力を持っている人。大したことのないささやかな言動までもが、すぐに誇張された題字でもってニュース記事になるような人。そんな風に、人の興味とアクセスが一気に集中する様な、表に立っている人たちの気苦労というのは、当然ながら、きっといろいろとあるのだろう。

 人の気を惹きつける力を持っている人は、その人自体が「ショー」と化している証拠でもあり、そして、眺めていたいとたくさんの人達に思わせる魅力的な生業でもあったりする。だけれど、この「ショー」の中には必ず演出が入ってくるわけで、その演出と現実との落差にショックを覚える人も多いわけである。

 アイドルや人気女優の、恋愛という「不祥事」は、周りの溜息をすぐに体感できる、なんともわかりやすい出来事ではないだろうか。錯覚を起こさせる手腕が長けている人たちは、「恋愛」という側面においても、同様にそれを「秘め事」として慎重に取り扱っているというのは、言わずもがな世間に浸透していることであると思う。

 清く、正しく、美しく。常に求められ続ける、「アイドル=純粋=偶像」という方程式は、強固な地盤のように滅多には揺るがない。ここに少しでも「淫」な要素が含まれた時点で、あっけなく方程式が成り立たなくなる無常さもある。そんな風潮が強いこの国の人たちに、「裸になったりセックスをしたりしている人はアイドルなのだろうか?」と聞けば、大多数が「NO」と即座に答えるのは、普通のことではないだろうか。

 週刊誌ではキスをしただけで、ホテルから二人が別々から出てきただけで、即座に性的な要素を持っていると紐づけられ、100パーセントのアイドルという理想像や、純粋なキャラというイメージを崩したと、全方位から矢を射られる。期待していた人達から悲しみや怒りをぶつけられてしまうという構図は、なかなかに仕上がっている。人間なのだから性があるのは当然のことだけれど、性があることを醸し出した時点でアウト、という明確な一線があるのは理解しやすい。

 しかしそれと真逆に、キスも裸もセックスも他人に見せている人が、なぜかアイドルでもないのに、アイドルのように「恋人」や「恋愛」を隠すというのは、なんだか、ものすごく滑稽のように思いはしませんか?

 といいますのも、こんな風にセックスを露わに見せつけている私という人間が、なぜか「恋愛」を公表できないという、そんな妙な状況が七年間以上続いているのであります。

 キスなんて容易く超え、もはや唾液の交換まで画面上で散々見せつけているのだから、アイドルを崇拝している人たちからしてみたら、“性お化け”みたいな扱いをされたとしてもおかしくはない。

「この間21Pの撮影をしたら腰を痛めてしまいました。ついでに首も痛いです。ロキソニンシップ万歳!」「私の相棒(電マの写真付き)。まさに“棒”」などの性日常を呟いたらフォロワーが増えるという、“AV女優あるある”も外の世界では通用しないだろう。

 セクシーという言葉は生ぬるく、繰り返しているこの本業のサイクルをカテゴリーに当てはめてみれば、ただの“ドエロ”だと思う。

 だからこそ、この仕事を始めてから、ひたむきに隠さなくてはいけないものの一つに「恋愛」という一面があることを事務所から強く言われたり(デビューした時に、へー、この世界でもそうなんだ!とびっくりしたものです)、異性の影を見せないことを美徳とする常識概念が、相反する様に感じてものすごく不思議だった。

 私たちにも純粋さを求めているのかといえば、きっとそんなことはないのだと思う。しかし自分の恋愛話や、プライベートでの異性との性生活を正直に語ったとしても、決して心地よくは思ってもらえないのである。ここの矛盾を回収するにあたって、働くおっぱいは考える。結合部を見せつける撮影をしていたとしても、ピュアな心を少なからずもっているであろうという希望的観測、その極端な落差に、いわばその圧倒的真逆要素に、もしかしたら多少の希少価値を置いてもらえているだけなのかもしれないな、と。

 勿体ぶるような立場の人間でもない私が、恋愛をひたむきに隠し続けている現実を知れば、皆様は笑ってしまうかもしれない。自分でも、なんだかおこがましい感じがしてたまに恥ずかしくなる。

 AVを始めてから、いいなぁと思う人がいたとしても、明確に悲しむ人の顔が浮かんで躊躇ってしまう、という本心をここで話したら、「自惚れてるんじゃないよ!」とヤジが飛ぶのかもしれない。

 しかしながら、自戒の作業は他の女優さんだってきっと繰り返しているのではないだろうか。マジでそんな裏の話なんて聞きたくないんだよ、わざわざ言うなよ。暗黙の了解案件なんだから沈黙を貫いてほしい。そんな意見もあるはずだ。

 だけれど、股間だけでなく、恋愛にも必ずモザイクがかかるようになるだなんて、モザイクだらけの人間みたいで、最後には存在すらぼやけてしまいそうに思える。

 取材の中で、「彼氏がいますか?」「結婚願望はありますか?」「何歳で結婚する予定ですか?」と筆記具片手に尋ねられることがよくある。……ふむ。その返答に応じて、タイトルでミスリードを煽って発信したりするんでしょ、あなた。そういう手法はお見通しなのですよ。と咄嗟に盾を構えて、結果、大喜利合戦のようになってしまう。過去ではなく、あくまでも「現在進行形で起きていること」への質問というのは、恋人がいてもいなくても、どちらにせよ、結論ありきのものなのではないのだろうか。

 と、まぁ大変失礼ながら、こんな風に内容のない不毛な質問だとは思ってはいるのだけれど、確かに、自分が好意をもっている人の記事の中に「恋愛」という文字が見えたなら、そのたびにドキッとして読み進めてしまう自分がいるのも事実だ。

 錯覚を生み出す見事な手腕を身に着けている、そのミステリアスな部分が美しく輝く人たちへの、「彼氏がいるのか?」「彼女がいるのか?」という質問の意義というのは、いったい、なんなのだろうか。確かに興味は湧くけれど、しかし、その状況を知ったところでどうするのだろう。

 そもそも「恋愛しているのか、していないのか」と気にされる人というのは、それだけ偶像化される傾向が強いという証拠でもあるわけで、「いないって言ってほしいな」とわずかな希望をもたれている人達なのではないだろうか。もしその同調圧力にも屈しず、誠実に「はい、いますね」と答えたならば、「そなた、裏切ったな!」と恨みを買って、即座に島流しの刑なのでは。恋愛をせずとも、違う異性へと流れていくファンの背中は見送ることしかできず、刹那的な好意の転向を突き付けられて、たまにふと、ものすごく悲しくもなる。

 人に好きになってもらうために頑張る仕事というのは、それだけ、自由が減るということでもあるのかもしれない。こちら側にきてくれた人を受け入れ、去っていくことも受け入れるという受動一貫体制は、ファンを引き留める術など見つけることもできず、引き留める力量を持ち合わせていない自分自身のせいだと諦めるしかないのだろうか。

 それにしても、「彼氏・彼女がいますか?」という、“それ、インタビューで聞く必要ありますか?“問題。どうせ、本当に聞きたいことなんてきっと答えてもらえないのだから、三番目くらいに興味があるようなことを熱心に聞くというのは、代案としてどうでしょうか。

 その時こそ、虚偽なんてなく、本当のことを淡々と語ってもらえるのかもしれない。そして一番、ピュアな答えが返ってくるのかもしれない。もし、私が大好きな俳優、ノーマン・リーダスが来日していて(ウォーキングデッドのダリル。最高なんだな。大好きなんだな。)、彼に会える確率を高めるために神頼みし、急激な速度で流暢な英会話を習得して、インタビューしてもいいよという権利を得られるような信じられない展開が訪れたとしたら。私は彼に、こんなことを聞くだろう。

「ハンバーグにはソースをかける派ですか? それとも、何もつけない派ですか?」

バナーイラスト=スケラッコ

執筆者プロフィール
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。

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