『働くおっぱい』「私がすることの中で最もセクシーなこと」/紗倉まな

エンタメ

公開日:2019/1/11

 すっかり身体が膨らんだ。もう笑うしかない。

 張りのある腹太鼓を叩き、その軽やかな音を、部屋の外で鳴り響く除夜の鐘で打ち消す。

 煩悩と急激に育った脂肪が錯綜して迎えた新年。姫初めの準備もそこそこ万端。

 乳首の黒ずみは薄まる気配が一向にないので、気休め程度に乳首に唇パックをはって潤わせていく所存。

 遅れましたが、皆様、あけましておめでとうございます。今年も働くおっぱいのコンディションは、こんな感じです。何卒、よろしゅうお願いいたします。

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 年始に重い足取りでもって帰省してソファに深く沈み込み、地蔵と化していた私に、母が「仕事の調子はどう?」なんて尋ねてきたので、まぁぼちぼち、と答えながらも、2019年の初っ端から、遠いようで近い未来のことを考えた。

 あと二か月で26歳。長くえろ屋の現役選手でありたいと願いながらも、私は果たして、いつまでこの仕事を続けているのだろうなぁ、とふわふわと輪郭のないことを思うと、期待と憂鬱が入り混じって、最後は「まぁどうにかなるし、どうにもならない」と気持ちの終止符は打たれ、弾けるように未来像は消滅するのである。

 走り方もよくわからないのに七年間バタバタと転がってみたら今の場所に立っていたわけで、不器用な転がり方も「一つの走り方」と認定してくれる世の中だったからこそ、どうにかこうにかトラックを走り続けられているのは、もしかしたら幸運であったのかもしれない。

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 何事であっても続けることは容易くない、と誰しもが口にするけれど、その次に述べられることとして、「相当な意志や覚悟がなければ続かない」「楽しいと思えないと続けられない」という憶測が飛び交っているのはなぜなのだろうか。置かれた職場の環境とか対人関係とか、社会における自分という人間の需要とか、そこで求められる才覚とか。

 そうやって「続けたくても続けられない」理由を指折りしていく人を見ると、もちろん理解も共感もできるのだけれど、なんだかぴんとこないというか、そういうものなのだろうか。

 そういえば、「なりたくない職業ではあるけれど、貴方は伸び伸びと仕事をしていて羨ましいよ」と面と向かって言ってきた人がいたな。失礼な!ふんっ。

 とまぁ鼻を鳴らしたくなるけれど、そりゃぁ選んだ職業だけでなく、自分が世の中から浮遊した気味の悪い生物として誰かの目に映っていることは理解できる。

 何かを続けることというのは、前向きで誠実でひたむきな心持ちや、楽しもうとする向上心や、自分の社会的な役割をきちんと見つけてそれを律儀に果たしていくことだけで構築されているわけでもないのでは?という私なりの手ごたえを感じていて、その手ごたえというのを紐解いていくと、呆れるほど単純な心情に辿り着くのである。

 例えばシンクに溜まった皿洗いを淡々とこなしていても、途中で飽き飽きして放り投げだしたい衝動に駆られてしまう。

 しかしここで、アマゾンCEOのジェフ・ベゾス氏が、皿洗いのことを「私がすることの中で最もセクシーなことだと確信している」なんてさらりと放てば、なんだかものすごく高尚な儀式のように思うことができてしまうのである。

 ビル・ゲイツ氏も毎晩、夕食後に必ず皿洗いをするのだそうだ。しかもこだわりの、彼なりの洗い方があるらしい。

 ……えっ、ちょっと待ってください。はいっ、と私はすかさず挙手をする。

 ジェフ様! 皿洗いをセクシー……と捉える発想。なんですか、それ。アリ寄りのアリすぎませんか? 目から鱗。

 この作業に費やしている時間が至極もったいないと思いこんで生きてきたのに、「そんなことはないのだな」と唐突にやる気が沸々と湧きあがり、「今の私はとてつもなくセクシーである」と容易に気持ちを高ぶらせてくれる。

 確かに視点を変えてみると、皿洗いは集中して没頭できるがゆえに、ときたま、名案が洗剤の飛沫と共にこの身に飛んでくることもあるではないの。

 憂鬱な作業を、優雅なひと時へと昇格させてくれて、ジェフ、まじでサンキュー!ってな具合で、私はさりげないその一言に一気に妙な信仰心までも強まり(皿洗いをするたびに彼の顔が思い浮かぶようにはなった)、短絡的思考回路で繋ぎ合わされた脳内で、培われた概念がいとも簡単に崩れていくのがわかったのである。

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 これってすなわち、「皿洗いをしている今の自分はセクシーな状態である」ということに酔っている、ということでもあるのかなと思っている。

 見えない自分の背面が、誰にも見られていない皿を洗い続けている私の背中が、自分の頭の中でセクシーなシルエットに象られていく。セクシーに思う箇所はジェフ殿とは異なっていると思うけれど、彼がもたらしてくれたのは、そういった一つの“酔い”の提供なのである。

 そしてこの酔い、というのは、何かに集中するだけでなく、最大の“継続の源″にもなり得るのではないか。

 働くおっぱいは、しがない人生を振り返ってみた。

 自分の中で認識している範囲での話になるけれど、最初に“酔うことのできた仕事”はなんだったろうか。

 つまり、ある一定の期間“続けることのできた仕事”ということでもある。あっ、とひとつだけ思い出した。それは、「誰かにコピーを頼まれるようなノートを作る」仕事だった。うーん。ちょっと響きは格好良くないのが傷ですな。

 それって仕事っていえますのん?という声がちらほら聞こえてますが、例えば学校のそこかしこには、居眠りが多発する退屈な授業が存在するわけで、「えっ、ノートを書いてるそばからあの先生、バンバン黒板消していくんだけど…!?」って唸ってしまうドSな授業もあるのだよな。

 もう少しで理解できるといった一歩手前で、するっと話題を切り替えるのだから、座りかけた椅子を思いっきり意地悪な誰かに引かれたような居心地の悪さを覚えてしまう感覚にも似ていて、一気にやる気も失せる。でも、明らかに、その場にいるのに一人一人の体感時間は異なっているのである。

 誰かにとっては空白の時間でも、他の誰かにとっては、「その時間に参加した」という形跡がどこかに刻まれていることもある。そこには、静かながらも確かな需要があった。

 自分のノートが誰かの余白の埋め合わせができることに、ある日、気が付いたのである。

 するりと岩場に逃げて行った大魚(=その講義の中で得た本質的なこと)を正確に書き取り、「お願い、コピーさせて!」と試験前に頼まれる。あわよくば、後に、何かを対価として、ノートの代償を回収する。これが、「誰かにコピーを頼まれるようなノートを作る」仕事である。

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 私はかなりのポンコツ人間でありますが、「人が話しているときには絶対に寝ることができない」という誰にも強いられていないのに勝手に感じている強要感と、屈強な嫌われたくない根性があって、それを貫けることが唯一の取り柄だった。

 くだらないギャグや小声をぼそぼそと挟みながら「今のは試験に出るんだけどねっ」という先生の言葉を聞き逃すことはなく、音、人の話、すなわち講義を聞くということも全く苦ではなかったのである。

 普段は話しかけてくることのない、寝癖のついた男子が、

「え、あの講義ってこんなに書くことあったっけ?」

 と小さく叫ぶと、その声が“ノート師”の快感燃料になる。

 いいよ、いいよ。もっと言ってちょうだい。

「うわ、文字数すごっ」

 でしょ? 文字数“だけ”はすごいでしょ?

 ページをパラパラとめくると、まっていた言葉がやってくる。どうか言ってほしい。

「てか、きもっ!」

 ポウ!最高!!!

 まさに心理的にはこんな具合。都合よく他人に使われているだけだとは大いに自覚していても、単純に快感であり、身体を火照らせることに違いはないのだった。

 そうなると、私のノート書きへの姿勢がさらに前のめりになっていく。

 まずは環境の整備。なるたけ先生のウィスパーボイスも聞き逃さぬように、席替えをしても絶対に最前列を選ぶようになる。誰もその席を選びたがらないから倍率も低く、獲得しやすいのでこの点は容易くクリア。

 次に、状況を変える。

 講義の内容を漏らさずに聞くこともそうだけれど、先生となるべく視線を合わせるように努めた。

 黒板から先生が振り向いた瞬間、ガン見する。へい、聞いてますぜ、ボス。と心の中でずっと挙手をして目立つようにする。人は面白いことに、聞いてくれていると思う人に向けて、言葉を強く投げようとする習性がある。

 自分へ興味を抱いてくれる人へ好意を返すように、「起きているのはお前だけだからいいことを教えてやるよ」みたいな調子で、ぽろっと大切な何かをこぼしてくれることがあるのだった。そのこぼれ玉……へい!いっちょもらいっ!

 そして教卓の上で広げられた参考資料を覗き込む。出版元とページ数と線が引かれている箇所をとりあえずメモし、土日にその本を買いに行こうと決める。

 授業で取り扱われていない資料を隅から隅まで熟読すると、知的好奇心が満たされ、奥行きが広がっていくような学びの補強を得るのは副産物の快感だった。

 そのうち、早口で安易に聞き取ることのできない先生の講義では、ボイスレコーダーを机の下にこっそり持ち込むようになった。話していたことを記録すると、寮に帰ってパソコンで文字起こしをする。もはや完全なる趣味だった。

 そうしていくと、その人が得意とする“話の展開の仕方”までもが当然ながら分かるようになるのだった。

 はじめから本題に入る人。オープニングトークを取り入れて、生徒の気を惹いてから講義に入る人。もはや何かを伝える気などないのだろうな、とこちらが落胆するほどに、ただただ身内話をしていたら、残り時間が少なくなって慌てて本題を片付け始める人。他愛もない話に見せかけて、実はそこに語るべきことを交えて取り入れるという一捻りを取り入れてくる人。ずーっとひたすら機械的に、数式を解いていくせいで、チョークの音だけが響く人。それらをBGMにしてレポートを書いたりもした。零れ落ちた音を拾っていくようで、実に面白い、とレコーダーを速めて聴く。そして先生の話。実に面白くない。

 無駄な時間を過ごしているような気がしたけれど、それが私にとっての、ジェフが言う「セクシーなことだと確信できる」瞬間なのだった。没入し、集中し、余計なことを排除できる時間。

 正しい勉強法でもないだろうし、その時間を別の何かに充てるべきだろうと鼻で笑う人もいるとは思うけれど、興味の度合いと成績が下がることはなかったから、それだけは続けることができた。

 自分が普段使っているノートとは別に、誰かに見せるためのノートを開き、講義の要点と傾向と対策、それの類似問題を勝手に作って、勝手に解答式を書き、そして先生が使っていた資料から得た知識を添えるようにして書いていく行為は、セックスと同じくらいに気持ちのいい行為でもあった。

 その行為こそ、大半の人がそこに時間を割くことはない、無意味で無駄で不必要と認定されてきた「ノート書きの仕事」になった。そして同時に、自分の快感に人を巻き込んでいくことは、何よりも継続の意志に繋がることになり得るのだと知った。ノート書きの仕事を奪う競合がいなくてよかったのかもしれない。

 *

 そんな風に実家で松前漬けを食べながらなんとなく高専の頃の記憶を思い出して、押し入れからノートを引きずり出してみた。

 埃を被っていて、昔はあれだけいろんな人の手垢にまみれたのに、役目を負えるとその栄光も文字の色も、しっかりと薄れていた。

 今は別の対象を「セクシー」と認識し、自身で勝手に興奮し、没入しているはずなのだが、でもはて、それというのはなんだったのだろうか。ノートから形を変え続け、現状はどのような姿を帯びているのか、原形が何であったかも覚えていない自分がいることに気が付いた。

「部屋が汚れるからしまってちょうだい!」

 と後ろから母の怒鳴り声が聞こえる。

 埃を取るようにして愛でながら、さようなら、と過去のセクシーを、押入れの奥の奥の方へとぐいっと押し込んだ。

 何かを続けることは、忍耐や楽しさが要求されるというよりかは、波に引きずり込まれるように、うっかりとこなしてしまっているだけのようであり、加えて、誰にも頼まれていない使命感を勝手に感じているだけなのかもしれない。一人遊びの延長のような、自分だけのものにしておきたいような、そんな程度のものだったのかもしれない。現状で感じている「確信めいたセクシー」なこと。はあー、なんだったっけ。

 とりあえず腹がへこんできた夏頃までには、見つけておこうと考えている。

バナーイラスト=スケラッコ

執筆者プロフィール
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。

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