悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第2回

小説・エッセイ

公開日:2019/6/14

グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

『美食亭グストーの特別料理』(木犀あこ/KADOKAWA)

「チケットをお持ちでしょうか」

 耳のすぐそば、耳たぶが震えるほどの距離でそう囁かれて、刀馬は腰を抜かすほどに驚いた──文字通りかくっと膝を折ると同時に、可愛い声まで漏らしてしまった。振り返ったすぐ目の前に女性の顔があったので、上半身を反らしながら距離を取る。黒い制服を着た女性のホールスタッフだ。女性は口角を上げたまま、明るい声でさらに問いかけてくる。

「チケットをお持ちでしょうか」

 ホールスタッフはピンポン玉ほどの大きさの目で刀馬を見つめ、同じ言葉を繰り返す。刀馬はこくこくと何度もうなずいてから、歯を見せて笑い、汗でくしゃくしゃになったチケットを顔の横に掲げてみせた。相手は流し台に貼りついた玉ねぎの皮をひっぺがすような手つきでそれを受け取り、表と裏を眺めて、刀馬の目をもう一度覗き込む。そして頭を下げてから、くるりと体の向きを変えた。

「こちらにご案内いたします」

 背を向けたホールスタッフが歩き出したので、刀馬もそのあとを追う。案内するといっても、空いている席などないんじゃないか──と疑問に思ったが、ホールスタッフはラムチョップ臭のするホールを壁沿いに進み、店の出入り口からもっとも遠い一角までやってきて、背の高いワインセラーの横で足を止めた。ひっそりと取り付けられた扉を開いて、中に入るようにと促す。刀馬は戸惑った。個室にでも案内してくれるのかと思いきや、扉の先にあるのは、真っ暗な階段だけではないか?

「こちらにご案内いたします」

 またしても同じ言葉だ。これ以上の説明は期待できないのだと悟って、刀馬は慎重に足を踏み出した。足元が暗くて先がよく見えない。ばたん、と勢いよく扉を閉められて焦ったが、天井の白熱球がすぐに点ったことで、周囲がちゃんと確かめられるようになる。思っていたよりも深くまで下りるらしい。地下一階、いや、一階半ほどの深さまで潜ったところで、暗い石造りの床が現れる。

 地下に広がるホールは、一階の五分の一ほどの広さだった。漆喰の壁には山羊の頭が飾られ、茶色く変色した毛を葡萄形のランプが照らしている。

 ホールにはクロスのかけられていない丸テーブルがあるのみで、椅子も一脚しかなく、まるで監禁用の部屋かなにかのようだ。天井は一階同様に高い。そしてホールのさらに奥、闇に沈むあたりには、革張りのカウンターがあった。その奥には、どこまで広がっているのかがわからない厨房も。その薄闇の中で、なにやら巨大な塊が風もないのに揺れ動いている。

 刀馬は惹かれるようにして歩を進め、厨房を覗き込んだ──いくつもの寸胴鍋。牛骨の匂い。牛や豚とは思えない獣臭もする。カウンターの天板には一羽のキジが横たわっていた。羽は鮮やかな輝きを残しているが、どうも腹のあたりの線がおかしい。その首にそっと触れてみて、刀馬は違和感の正体を悟る。キジは作り物だ。その鮮やかな羽が、すぐそばの銀の水差しに歪んで映り込んでいる。

 周囲に置かれたオレンジや林檎は本物らしく、刀馬はそのうちのひとつを手に取ってみた。オレンジの皮からは新鮮な香りが漂っている。厨房の奥に目をやるが、闇の中で揺れ動いているものの正体はよくわからない。臓物のはみ出したアカエイのように思えるが、処理の途中なのだろうか。厨房の手前のほうに視線を戻したところで、小さな冷蔵ケースが目に飛び込んでくる。ケースの中に横たわっていたのは──皮を剝かれたモルモットのような生き物だ。

「クイ」

 低く気だるい声が、厨房の奥から響いてくる。刀馬は顔を上げ、冷蔵庫の陰から現れた人物がゆっくり、ゆっくりと歩いてくるのを、言葉もなく見守った。黒いコックコートに、青白く漂白されたエプロン。服装こそ違うものの、さきほどホールで見かけた店長らしき男であるに違いない。男は左手に牛刀を握っている。その手と顔を見比べている刀馬に向かって、男は再び語りかけた。

「脂肪分が少なく、質のいいタンパク源でもある。下茹でしてからイエロー・ペッパーのペーストで煮込めば、ジャガイモによく合う味わいになる」

「ピカンテ・デ・クイ」

 刀馬の答えに、男は片眉を上げた。はらわたを抜かれ、平たく開かれている肉を見やってから、刀馬はさらに続ける。

「『モルモットのスパイシー煮込み』……ペルーの料理ですよね? あ、俺、親父が日系ペルー人なんで──」

 男は興味を持ったのか持っていないのか、それ以上表情を変えようとせず、黙って刀馬の言葉を聞いていた。間近で見たその顔は、整っているのにどこか不気味で、見ているだけで寒々とした気持ちになる。背後にある山羊の頭に見つめられている気がして、刀馬は身震いした。なるほどな。表向きの顔は羊。地下に隠された顔は、山羊に象徴される悪魔といったところか。

 男は眼球の動きだけで刀馬をじっくりと観察して、手に持った牛刀を作業台の上に置いた。どうやら捌かれることはなさそうだと、刀馬はほっと息をつく。両手を広げて問いかけてみた。

「ここ、何屋さんなんですか?」

 ペルー料理を出しているならペルー料理、あるいは南米料理の看板を掲げているだろうし、マトンやラムを主に出しているのならば羊肉専門店ということもあるだろう。しかしこの店にあるのは「美食」という肩書と、「グストー」という不思議な響きだけ。答えを待っている刀馬に、男は見下すような視線を投げかけてきた。

「一九二八年に初代オーナーがこの店を開いたとき、スペイン語の『gusto』を『グストオ』と呼んでこの名を付けた。以来、店は決して表に宣伝を出すこともなく、通りに看板を出すことすらせず、今に至るまで存在し続けている。上野からここ歌舞伎町に場所を移しはしたがね」

「で、何屋さんなんですか?」

「私は荒神羊一。ここ『グストー』の三十三代目の店長兼料理長だ」

「そうなんですねー」

 刀馬はあっさりあきらめた。この店では、人間と人間の会話がなかなか成立しないものらしい。

「さっき、上の階にいただろう?」

 荒神はほんの少し砕けた様子で、刀馬に別の問いを返す。見られていたのかと、刀馬は大袈裟に眉を上げた。

「いました。俺もラムチョップ食いたいっす」

「肉はシンプルに焼き上げるのがいい……余計なものはいらない。あとは火をいかに通すか、それだけだ。しかし、どれほどその焼き加減にこだわろうとも、羊の個体の選定からその肉質にこだわろうとも、うまいうまいとその肉を食った客は、一か月もすればその味のことなど忘れてしまう。味どころか、何を食ったのかさえ」

 男は牛刀を再び手に取り、その刃を眺めた。銀の什器に囲まれた空間の中、男の低い声だけがうつろに響く。

「人間が記憶するのは感情の動きであり、味の化学式ではない。だからこそ、体験をもって食の記憶を刻みつけなければならない。コースの中で出てきたたった一本のラムチョップのことは覚えていなくとも、店中を埋め尽くすほどのラムチョップを豚のようにむさぼり食った経験は、忘れようにも忘れられないだろう? だからこそ食わせるんだ。食わせて、食わせて、食わせて、『吐くほどラムチョップを食った』というやましい記憶が頭と胃に焼き付くまで、ひたすら食わせる」

 そういうものなのだろうか? 刀馬は食べたものをいちいち覚えているほうだが、それはつねにその食事を「忘れられないもの」として味わっているから、ということになるのだろうか。感情の動き……荒神と名乗った男は、ぴくりとも表情を変えずに続けた。

「モノが手に入るようになった人間は、感情の動きを得ることに必死だ──」

 荒神は顔を伏せ、冷蔵ケースの中の「クイ」を見つめる。そして刀馬に視線を戻し、ことさらに鋭い口調で言い放った。

「口にしたことのないようなものを『ゲテモノ』と呼んで、ただの好奇心でその食材を食ってみたいと思うようになる」

 刀馬はぴくり、と顔をひきつらせた。気づいたときには口から言葉が漏れていた。

「違う。ただの好奇心とかじゃないですよ──」

「ここに来れば、食ったことのないものを食えると思ったんだろう?」

 荒神が刀馬に突きつけたのは、あの招待チケットだ。刀馬の手でさんざん揉まれた紙はくしゃくしゃになり、表面には真っ赤な×の印が押されている。荒神はそのチケットを後ろ手に床へ投げ捨て、きつい視線を投げてきた。一息に言い放つ。

「このチケットをお前に預けたやつは、二週間前に偽造チケットで店にやってきて、支払いができないとわかるとお前の名を出した。自分よりもすごい食魔がいる。こんなに素晴らしい体験をさせてくれるのならば、彼にもぜひこの店を紹介したい。料金は全部彼が払うから。珍しいものがあれば、行かずにはいられない男だから、とな」

「ああーーーーーーーーーーマジか」

 刀馬は天を仰ぐ。ここまで気持ちよく裏切られるといっそすがすがしい。やっぱり、インターネットで知り合った歯の抜けたおっさんにモノをもらっちゃだめだ。

「お前がその『ものすごい食魔』だということに間違いないな?」

 刀馬は一瞬戸惑いを覚えたあと、にこっと笑みを浮かべてみた。荒神はさして興味もなさそうな目で刀馬を眺め、片眉を上げてから、そっとカウンターを離れる。巨大な冷蔵庫に向かって歩きながら、再び問いかけてきた。

「珍しいものが食いたいか?」

 冷蔵庫の扉が開く。刀馬は荒神の背中越しにその中身を覗くが、どの段にもぎっしりと銀色のバットが並んでいるのが見えただけで、他の食材などを確かめることはできなかった。背を向けたままの荒神から、低い声が飛んでくる。

「今までに経験したことがないような陶酔を、味わってみたいか?」

 刀馬は頷く。その様子を見ていないはずの荒神は、二度ほど肩をひきつらせたあと、冷蔵庫から一枚のバットを取り出した。神聖なものを運ぶような足取りで、刀馬の立つカウンターのほうへと戻ってくる。

 バットの中には、丸く形成されたひき肉が数個。合い挽きだろうか。荒神はしれっとした目つきをして、突き放すような声で言い放つ。

「座れ」

 厳しい教師のような口調だ。刀馬が聞き返す隙も与えず、荒神はさらに続ける。

「私の料理を立って食う気か?」

 できれば料理するところ見たいんですけど、と言ったら怒られそうなので、刀馬はその言葉に従うことにした。ホールの真ん中に置かれたテーブルへと戻り、デイパックを床におろす。椅子に腰かけたところで、改めて地下室を見回してみた──照明なんかの設備は一階と同じか。それにしてもテーブルと椅子と食器棚、それにお手洗いらしきドアがあるだけで、殺風景なことこの上ない。見るべきものがないため、視線は自然と玉ねぎやフライパンが吊り下げられた厨房へと向いてしまう。

 荒神は刀馬に横顔を向ける形で、作業を進めていた。かちり、とコンロに火を入れる音が響く。レンジフードの光の下に立つ相手に向かって、刀馬は声をかけた。

「あの」

 フライパンが五徳に触れ合う音と、立ちのぼるオリーブオイルの匂い。すぐに肉の焼ける香りが漂ってきて、刀馬は鼻をひくひくさせた。

「むかついた客の手を、カエルの肉にぶち込んだりしたことあります?」

 返事はない。刀馬は何も置かれていないテーブルに向きなおって、手持ち無沙汰に指を組んだ。火に向かう料理人に話しかけたらだめだよな、と自分を納得させて、足をぶらぶらさせながら料理が供されるのを待つ。

 それにしても──荒神はこの店の料理長であると名乗ったが、まだ営業している上の階を放っておいて、こちらにかかりっきりになってもいいのだろうか。この地下は招待チケットを持っている客のための特別室ということか? その正規のチケットはどこで、誰からもらえるのだろう。流れてくるニンニクの匂いと、じゅうじゅうと耳をくすぐる音にとろけながら、刀馬はとりとめもなく考える。もう無理だ……腹が減って……革靴の煮込みでもいいから食いたい……と飛びかけた意識を、かん、とひときわ高い音が引き戻す。荒神がフライパンの縁を叩いたらしい。

「上の階は集客用だ。謎めいた店があるらしいという噂さえあれば、野次馬根性の客が集まってくる。うちは一見お断りなどと言った覚えはないが、客たちが紹介でなければ入れないなんて思いこんでいるおかげで、来る客来る客がみんなグループか二人連れ、しかも自称食道楽の食いしん坊どもときている。あとは海老と肉でも食わせておけば、いやあうまかったな、また来ようって気になるわけさ」

 考えを読まれていたような答えが返ってきて、刀馬は荒神を二度見した。料理人は仕上げの盛り付け作業に入っているらしい。

「上の階は『美食亭グストー』。この地下階が『怪食亭グストー』。『グストー』の本質は、地下のこの厨房にこそある」

「そしてこの地下では──珍しいものが食べられる、ですよね?」

 荒神は手を拭うような動作をして、ガスコンロのそばから離れた。深紅のプレースマットとカトラリーの箱を手にして、大股にホールへ入ってくる。

「そして、未知なる陶酔も」

<第3回に続く>