悪魔のような料理人が普通じゃない注文に応える――その料理に隠された秘密とは? 『美食亭グストーの特別料理』/連載第5回

小説・エッセイ

2019/6/17

グルメ界隈で噂の店、歌舞伎町にある「美食亭グストー」。友人の紹介で店を訪れた大学生・一条刀馬は、悪魔のような料理長・荒神羊一にはめられて地下の特別室「怪食亭グストー」で下働きをすることになる。
真珠を作る牡蛎に昭和の美食家が書き遺した幻の熟成肉、思い出の味通りのすっぽんのスープと、店に来る客のオーダーは一風変わったものばかり。
彼らの注文と、その裏に隠された秘密に向き合ううちに、刀馬は荒神の過去に迫る―。

『美食亭グストーの特別料理』(木犀あこ/KADOKAWA)

「いやいや、どうも、遅れてすみませんでしたねえ──なにせ、こっちの方にはほとんど来ないものですから。歌舞伎町には詳しくないんですよ、ましてこんなややこしいところにある、ちっちゃい店だとね──」

 大きな腹を揺らしながら店に入ってきた武藤氏は、刀馬を見るなりそう言い放った。赤ら顔で、額が広くて、きっちりとした格好をしていて──ちょっと取っつきにくい感じの人物だ。のしのしと階段を下りる間も、地下階のホールに出たときも、ふんーっと大儀そうに息を漏らしただけで、笑顔を見せようとはしない。席に着かずに待っていた綾が、わざとらしく口を尖らせる。

「遅いよ、お父さん。来なかったらどうしようって思っちゃったじゃん。ずっと前から準備してたのに」

「お、綾、母さん。いやそれはすまんねえ、迷っちゃってね。こんなせまっ苦しいところでやるとは思ってなかったんだよ」

 娘の声を聞いて、武藤氏は丸い顔にようやく笑みを浮かべてくれた。荒神は刀馬から武藤氏を引き取り、その巨体を席へと導きながら、言葉を挟む。

「まあまあ。こうしてお見えになったのですから、いいではないですか、綾さま。さあ、武藤さま、どうぞおかけになって……本日のお料理をすべて担当いたします、荒神でございます。本日は武藤さまのお好きなものをとお伺いしておりますので、どうぞ心行くまでお楽しみくださいませ。かけがえのない時間を……」

「お料理もサービスも、最高のものをお届けいたします!」

 声を上げた刀馬は、武藤家族からは死角になる位置で荒神の肘を思いきり腹にくらい、海老のように体を折った。まだ硬い空気を温めようとしただけなのだから、それくらいは許してほしい。

「さあ、綾さまもお席に……あとは私どもにお任せください。まずはお飲み物を。武藤さまにはマーフィーズのスタウト、ご夫人にも同じもの、綾さまにはペリエでよろしかったですね。すぐにお持ちいたします。お料理も」

「へえ、こっちの好きなものをあらかじめ調べてくれているのか。わりと気が利くじゃないか」

 武藤氏が意外そうな声を上げる。動き出した荒神に目配せされて、刀馬も慌ててそのあとを追った。飲食店でのアルバイトは何度か経験したことがあるが、ここはこの男の店だ。どんな指示を飛ばされるかわかったものではない。昨日(といっても数時間前)の掃除と片づけでだいたいのモノの位置は覚えているので、自分から動くことにしよう。

「──グラス、出しましょうか? スタウトですよね。料理の仕上げも、俺ちょっとなら手伝えますけど。ソースかけたり」

 カップボードに向かいかけた刀馬を制して、荒神は首を横に振る。厳しく、咎めるような表情だ。

「酒の一滴も注ぐな。私が運べと言ったものを運び、さげろと言った皿をさげろ」

「へいへい」

 刀馬は生意気に答えて、カウンター裏の作業台をちらりと見る。下準備を終えた皿がびっしり。これほどの量の料理を荒神がひとりで仕上げていくつもりならば、それでも構わない。あとで泣いたって手伝いませんからね。

「いやというほど運んだりさげたりしますよ──それだけでいいんならね!」

 しかし荒神は泣かなかった。無理、だれか手伝ってくれと先に弱音を吐きそうになったのは、刀馬のほうだ。

 乾杯のビールに始まり、トマトやチーズやオリーブをあしらったピンチョスにほうれん草のキッシュ、クルミ入りのロメインレタスのサラダに有機野菜のバーニャカウダとバゲットを添えたマッシュルームのアヒージョ、まだぐつぐつと煮え立っているオニオングラタンのスープにふわふわ卵のスクランブルドエッグ、白身魚のフリットに果ては豚肉たっぷりの回鍋肉、鶏モモ肉の唐揚げ──「父親の好きなもの」を用意しているとは聞いていたが、まさかこれほどとは!

 次々に出てくる料理、酒のおかわり、そして荒神の指示を受けた皿をひたすら運びながら、刀馬は文字通り目を回していた。広くないホールと厨房の短い動線を行ったり来たりしているので、もう何度体をターンさせたのやらわからない。荒神の集中力はすさまじく、あちらでオーブンの火を見ていたかと思えばこちらで野菜の盛り付けを仕上げ、三人分のスクランブルドエッグを作っていたかと思えばフリットを揚げて、熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちにと次々に料理を仕上げていく。

 まさに刀馬が指一本手出しをする隙も与えない──武藤家族の食欲もまた豪快で、でっぷりとした父親も、いったいその体のどこに入る空間があるんだと言いたくなるような母親も、同じく華奢な娘も、弾む会話を交わしながら、運ばれてくる料理を次々、次々に平らげてしまう。ソースの一滴まで舐め取られた皿が戻り、また湯気を立てる料理が運ばれ、食卓は次々とその様相を変えていく。汚れた皿を洗い場のシンクに積み上げながら、刀馬はとうとう弱音を吐いた。

「あの、荒神さん。あとどんくらい料理出します!? 皿、やばいです!」

 荒神は答えなかった。例の牡蠣の殻を流水で洗いながら、ちらりと視線を投げてきただけだ。その目は「次の料理があがっているから、さっさと運べ」と訴えている。

 終わりの見えない作業ほどつらいものはない。しかしとにかく目の前のことをやるだけだ──と、刀馬はひたすら与えられた仕事をこなしていく。また新しく二、三の料理を運び、空になった皿を引き上げ、武藤氏に七杯目のスタウトを運んだあたりで、ようやく荒神の指示が止まり、武藤親子の食事のスピードもゆっくりになった。テーブルには飲みかけの酒とフリットが数切れ残っているだけだ。そろそろシメか? デザートか? と身構えていたところに、荒神の声が飛んでくる。

「皿は残ってないだろうな?」

 お母さんのフリットがちょっと残っています──と刀馬が答える前に、荒神はカウンター越しに武藤親子のテーブルを覗き込み、ふむ、と自答していた。ぽかんと突っ立っている刀馬に向かって、また鋭く指示を出してきた。

「お前はもういい。ホールに出て、邪魔にならないところで黙って立っておけ。あとは私がやる」

「え、いいんすか? ホールやんなくていいなら洗い場行きますけど──」

「いいから厨房を出ろ。二度言わせるな」

 くるっ、と背を向けて厨房を出る荒神に、刀馬は歯を剝き出してやった。まあいい。動くなというのなら、右足と左足を交互に出せと言われるまで動かないでおいてやるさと、大股に荒神のあとを追う。厨房から出てきた二人の姿を見て、武藤家族は満足げな笑顔を見せた。

「お料理はいかがだったでしょうか?」

 家族のテーブルにはパンくずのかけらも落ちていない。突き出た腹を揺さぶって、武藤氏はふん、と鼻息を漏らした。

「いや、なかなかけっこうでしたよ。こんな店構えなのに、本格的なものを出されるじゃありませんか」

 武藤夫人は音もなく微笑んで、泡の落ちたスタウトに口をつける。武藤氏の目を盗んで、娘の綾が荒神に目配せをするのが見えた。荒神は眉を上げてその合図に応え、腹をさすっている武藤氏の肩にそっと手を添える。

「さて、お次はデザート──といきたいところなのですが、実はご夫人と綾さまより特別料理のご注文を伺っておりましてね。二年かけて取り寄せ、武藤さまのためにこしらえたものがございます。どうぞお待ちください」

「まだ何かあるのか? 特別料理だって?」

 隣り合って座る母と娘は視線を交わし、くすくすと笑い、首を傾げる父親をそっと見守っていた。荒神は一度うやうやしく頭を下げ、その辺に転がっていた酒瓶を蹴っ飛ばすような勢いで刀馬を押しのけ、厨房へと帰っていく。首をきょろきょろさせていた武藤氏が、訝し気な声を上げた。

「なんだ? 綾も母さんも、にやにやして──」

 銀の盆を掲げ、すっと滑るようにホールへと戻ってきた荒神を見て、武藤氏は目を大きく見開いた。うやうやしく運ばれてきたのは──生牡蠣だ。殻長十六㎝ほどの大ぶりの牡蠣が三つ、腎臓型の皿に美しく盛りつけられている。添え物はくし切りのレモンと、粒の粗いローズソルトだけ。剝かれたばかりの身は新鮮で、皿に敷かれた氷までもが目に鮮やかだ。

「牡蠣か!」

 その皿がテーブルに置かれるなり、武藤氏は前のめりになって、ごつごつとした殻のひとつを手に取ろうとした。顔を上げて妻と娘を交互に見やり、もどかしそうな声を出す。

「どうした? 綾、母さん。食べないのか」

 娘の綾は優しく首を振って、父親の言葉に答えた。

「いらない。これ、お父さんのために取り寄せてもらったやつだから。食べて」

 武藤氏は娘の顔をじっと見つめた。そしてにこにこと笑う妻の顔を見やり、優雅に微笑む荒神を見やり、ホールの隅に引いていた刀馬にまで視線を送って、何かを嚙みしめるように口元を歪めた。嬉しさをにじませた声で言う。

「そうか……私のために? いいんだな? お父さん、全部食っちゃうぞ」

「ぬるくならないうちに、お召し上がりください」

 荒神が口を挟む。その目は腕時計をしていない手首をわざとらしく確かめていた。

「なにせ、さっきまで生きておりましたものですから」

 荒神に促され、武藤氏は大ぶりの殻をひとつ手に取った。肥えた身にレモンを絞り、殻を唇に当てて、つるりと一息に飲み込む。もぐ、もぐと何度か口を動かしたあとで、弾むような声を上げた。

「うまい!」

 武藤氏が叫ぶと同時に、その口から何かが転がり出て、陶製の皿がかつんと高い音を立てる。ん? と口元を押さえた武藤氏に、刀馬も思わず身を乗り出した。殻のかけらが身に紛れていたのかと思ったが──どうも、様子が変だ。

「おい、何か変なものが入ってたぞ──うん?」

 皿に転がり出たものを指でつまんで、武藤氏はいびつな粒を天井のランプにかざす。ホールの隅、武藤親子の顔がそれぞれ確かめられる位置に立つ刀馬からも、その爪の先ほどの粒が光を反射するのが見えた。

「真珠? おい、真珠だ。牡蠣から真珠が出てきたぞ!」

 はは、はははと笑う武藤氏に、母と娘は目配せをして微笑みを返すだけ。武藤氏はあっ、と得心したような表情を見せて、それから顔をほころばせた。小さな真珠を指でつまんだままで、妻と娘に白い歯を見せる。

「わかった。わかったぞ、悪戯好きだもんな、綾も、母さんも。本で読んだことがあるよ、サプライズでな、牡蠣に真珠を隠しておくんだ。もちろんアコヤガイかなにかが作った真珠をあらかじめ忍ばせておくわけで、その牡蠣が作った真珠ってわけじゃない。だろう?」

 な? と確認するような視線を送る武藤氏に、荒神はひとつ咳ばらいをした。片手を後ろに回し、もう片手で武藤氏の持つ真珠を大仰に指し示して、口を開く。

「お言葉ですが、武藤さま。この真珠はあとから仕込んだものではございません。いびつでかわいい形をしているでしょう──こちらは正真正銘、この牡蠣が作り上げた天然真珠でございます」

「これが?」

 武藤氏は真珠を掌で転がしながら、不審そうに返した。

「しかし、牡蠣が真珠を作るという話はあまり聞かないけどなあ……」

「真珠は貝の外套膜の上皮細胞が何かの拍子に外套膜の結合組織内や貝の体内に入ってしまい、そこで真珠質を……貝の内側にあるあの光沢のある層ですが、それと同じ成分のものを分泌し続けることで作られるものですから、貝殻を持つ軟体動物であればいずれも真珠を作る、とは言えるわけですね。その中でも特に美しい光沢のある真珠層を持つものを真珠貝と言うのです。日本語では『アコヤガイ』と『牡蠣』はまったく別のものとして扱われておりますが、英語ではアコヤガイをパール・オイスターと呼び、牡蠣の一種として扱っているようでございます。そう、牡蠣も真珠を作るのですよ。陶器のように、美しい真珠を」

「へえ」

 武藤氏は小さな真珠の粒をテーブルに置いた。心なしか、顔が青くなっている。

「そうかい……でも食用の牡蠣だと、気づかずに吞み込んでしまいそうじゃないか」

 刀馬はひっく! と喉を鳴らし、胃のあたりを押さえた。武藤氏に怪訝そうな視線を向けられ、慌てて平静を装う。

「貝殻と同じ成分ですから、少量であれば中毒することなどございませんよ。それよりも、貝の中から天然の真珠が見つかることこそ奇跡なのです。養殖の技術が確立するまで、真珠はそれこそめったに見つからない神秘の宝石でしたからね。アコヤガイから五ミリ程度の大粒真珠が見つかる割合は一万個にひとつか、ふたつか。とにかく、生きている間にそうそう巡り合えるものではございません。しかし、武藤さまが今目の前にしていらっしゃる牡蠣は──」

 荒神はわずかに立ち位置を変え、武藤氏の背後に回り込んだ。うろたえる武藤氏の両肩をそっと叩き、猫を撫でるような声で促す。

「さあ。二つ目を」

 目の前の皿と荒神を交互に見やり、じっと様子をうかがっている娘と妻にも視線を送ってから、武藤氏は二つ目の牡蠣を手に取った。さきほどと全く同じ動作でレモンを絞り、口で迎えに行くような姿勢で、二つ目の牡蠣をすする──二、三度咀嚼してから、ぺっと何かを吐き出す。真珠だ。さきほどの粒よりも大きい。

「またか」

 驚きに満ちた声。武藤夫人は酒を飲む手を止め、騒ぐ夫の様子を慈悲深い目で見守っている。

「また入ってたぞ──おいおい、すごい確率じゃないか、これ。これがもっといい貝の天然真珠なら、大金持ちになれるんじゃないか、はは!」

「その牡蠣ね、ミカゲガキっていうんだって」

 父親の様子を観察していた綾が、にわかに言葉を挟んだ。皿に残った三枚の牡蠣にまっすぐな視線を向けて、冷静な言葉を紡ぐ。

「飛魚湾ってところで養殖されてるんだけど──知ってる? 三重県の飛魚町。すっごくきれいなところなんだよ。私、二年前に行ってきたんだけどさ」

「ええ、ええ。普通は養殖であれ天然であれ、貝の中から真珠が出てくることなどめったにございません。しかしですね、今お嬢様がおっしゃったように、この牡蠣は飛魚湾で大切に育て上げられたものでございまして──マガキの一種ではございますが、特によく真珠を作るとのことで、特別な食卓に供するものとして定着しないかと、改良が行われている種なのでございます」

 武藤氏はまた得心したような表情をして、娘をじっと見つめる。しばらく何かを考えていたかと思うと、はは、ははと、高い笑い声を上げた。

「特別な! そうか……このわがままちゃんな娘がねえ。日頃の感謝を込めて、パパにとっておきのプレゼントっていうところなのか──」

 綾は何も答えない。唇に薄く微笑みのようなものを浮かべて、別の牡蠣を取る父親の手元を見ている。武藤氏は三つ目の牡蠣を吸い込み、また真珠を吐き出して、明るく顔を輝かせた。

「おい! これにも入ってるぞ! はは、ははは……なんだこれ、面白い、面白い牡蠣じゃないか! すごいな綾、母さんよ、ええ?」

 はしゃぐ武藤氏の肩をぽんと叩いて、荒神はそっとその近くを離れた。厨房に入ったかと思うとすぐに戻ってきて、真珠をにこにこと眺める武藤氏の前にまた別の皿を置く。貝殻型の美しい皿には、大ぶりの生牡蠣が三つ。皿を見た武藤氏は小さなげっぷをした。生牡蠣の汁で光る唇を歪め、妻と娘に弱々しい口調で語りかける。

「ん? なんだ、まだあるのかい……母さん、綾。いい加減にお前たちも食べなさい。そろそろ腹がいっぱいになってきたんでね」

 武藤夫人はもう酒を飲んでいなかった。両手を膝の上に置き、硬直したように背筋を伸ばして、テーブルの端をじっと眺めている。妻の表情を確かめた武藤氏は、力なく視線を逸らして、娘の顔をまっすぐに見据えた。

「綾?」

 頷くでもなく、首を横に振るでもなく、娘の綾は白い真珠をじっと見つめていた。その口からぽつりと言葉が漏れる。

「お父さん。私が大学の時に連れてきた男の子のこと、覚えてる? 智哉くんっていう子」

 動きを止めた武藤氏の腕を、荒神が軽く叩く──手が止まっていますよ、と。武藤氏はひっと息を吸い、荒神の顔と牡蠣を交互に確かめて、またおずおずとその身をすすり始めた。真珠を口から出し、テーブルの端に積み上げながらも、娘の顔から視線を逸らさない。

<第6回に続く>