友人が苦しんでいるとき、何もできなくても「見ているだけでいい」と知った【読書日記2冊目】

文芸・カルチャー

2019/7/1

2019年5月某日

 最近、元気がない。上がったり下がったりを繰り返しながらも軒並み低空飛行で、墜落寸前のメンタルを好きなものを食べるという、ささやかな楽しみだけで何とか鼓舞している。もういっそ、一度墜落して身体を解体しきって羽を休めたい。ライターも5年目になるけれど、1つの原稿を書くためだけにカウンセリングを、しかも2回も受けたのは初めてだ。

 どうして身体がこんなに動かないのだろうと思ったら、5月だった。そういえば毎年5月は寝たきりになって動けなくなっているというのに、1年後にはすっかり忘れている。30年近くもこの身体を操縦しているにも関わらず、毎年毎年リセットされてしまうようだ。来年はこんなことにならないように、Googleカレンダーの2020年5月1日に「憂鬱」と予定を入れた。

 自分のことばかり書いてしまったけれど、私の周りの大事な人たちも何となく元気がない。自分が元気なときならば話を聞いてあげられるかもしれない。でも、本当に落ち込んでいるときの声のかけ方がわからない。他人とのやりとりの一切を遮断して自分を殻で覆って籠っていたほうが楽なことがあるのも知っている。何気ない声掛けでかえって苦しくさせてしまったらどうしようなどと思うと、いつも声をかけられない。

 大事な人が悲しんでいるときにできることは少ない。お金はたくさん持っていないし、こんな風に声をかけることすらままならないこともあって、自分の無力さを思い知る。私にできることと言えば、拙い文章を書くこと、話を聞くこと、黙って側にいることくらいだけれど、そんなことすらできないとなると、濡れっぱなしの靴下を履いたままのような、じくじくと惨めな気持ちになるのだった。

 そんなとき、私がきまって読み返す本がある。宮地尚子さんの『傷を愛せるか』(大月書店)だ。

 この本は精神科医としてトラウマ研究をしている宮地さんの視点から日常を切り取ったエッセイ集。“男らしさ”が男性にとってのヴァルネラブルであってはならないと強いることで、かえって男性をヴァルネラブルにしてしまうというジェンダー問題について書かれた「男らしさと女らしさ」、友人のゲイカップルとの出会いを紹介しつつ“拡張族”について書かれた「ソウル・ファミリー、魂の家族」の話、ベトナム戦没者記念碑を目の当たりにしたときに感じた“傷”への向き合い方について書かれた「傷を愛せるか」など、ジャンルを越境したさまざまなテーマが取り上げられている。

 エッセイではあるものの、世界のあらゆる出来事に関して言及されていて、広く社会の問題について考えている友人たちには特に読んでもらいたい話ばかりだ。そして、そのいずれもが読み手の視点に合わせたやさしいもので、私は心がイガイガしてくるたびに、カウンセリングルームを訪れるような感覚で、この本を手に取りたくなるのだった。

 その中のエッセイの1つに「なにもできなくても」というものがある。巻頭を飾るこのエッセイには、宮地さんの幼少期の記憶と宮地さんの友人がパートナーを病気で亡くしたエピソードが登場する。

 誰しも少なからず似た経験があるかと思うけれど、幼少期の無力感と言ったらない。作中にも〈だれかを守りたくても、守る力はない。かといって、立ち去る力も行く場所もなく、ただそこにいつづけるしかない。〉という記述があるが、これを読んでいると幼い頃も大人になった今もそんなに変わらないのではないかという気がしてきて、初めて読んだときは落ち込んだ。けれど、そういう想いを感じた人は、宮地さんの友人が最愛のパートナーを病気で亡くしたエピソードに転じたとき、心の筋肉が明確にゆるまるはずだ。

 宮地さんの友人の最愛のパートナーのお葬式で、宮地さんはなすすべもなく、自分の無力さに打ちひしがれていた。最愛の人を失ったつらさは明白だ。にも拘わらず、友人は穏やかな表情で、告別式で骨壺に異物が入らないよう目を凝らしていたのだという。その姿を見た宮地さんは「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」という、メッセージを受け取ったという。

 この話を読んだとき、思い出した人がいた。私自身も視線を受け取る立場で、その視線のあたたかさに救われたことが何度もあったからだ。眠れない夜に「眠れない」と、寂しい夜に「寂しい」といったようなことをTwitterで呟くと、必ず「いいね」をくれたり、何でもないような連絡をくれたりする人がいる。彼とはそう頻繁に会うわけではないのだけれど、困ったときや苦しいときに大げさでなく、サッと手を差し伸べてくれる。具体的に話を聞いてくれることももちろんある。ただ、私が彼に救われてきたことの大部分は、何か物理的な行動や言動でなく、彼のまなざしだった。

「見ているだけでいい」という言葉が立体になって立ち上がり、頭から身体へゆっくりと落ちていく。私がしてもらって助けられたように、「見てるよ」の合図を送ることは、それだけで誰かの救いになりうる。

 見ていてくれるという、それだけの安心感に生活が下支えされている。私も大事な人のそれになりたくて、何となく元気がなさそうなその人の、深夜のツイートに「見てるよ」の念を込めて「いいね」した。

文=佐々木ののか 写真=Satoko Mochizuki バナー写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka