引越先のお隣さんはスーツの似合うイケメンデザイナー/『おいしいベランダ。 午前1時のお隣ごはん』①

文芸・カルチャー

2019/7/27

進学を機に一人暮らしを始めた大学生の栗坂まもりは、お隣住まいのスーツの似合うイケメンデザイナー亜潟葉二に憧れていた。
ある時ひょんな事からまもりは葉二に危機を救ってもらうのだが、それは憧れとはほど遠い、彼の真の姿を知る始まりで……!?
ベランダ菜園男子&野菜クッキングで繋がる、園芸ライフラブストーリー。

『おいしいベランダ。 午前1時のお隣ごはん』(竹岡葉月:著、おかざきおか:イラスト/KADOKAWA)

 わたしの素敵なものは、いつも一番近くで光ってる。

一章 まもり、練馬で最後の晩餐につきあう。

 はじめの一報は、栗坂まもりが高校三年の夏をしていた頃にやってきた。

 その時まもりが住んでいたのは、神奈川県は川崎の社宅で、自転車で石油コンビナートも見に行けるコンクリートジャングルは、夜になろうがいっこうに気温が下がらない。

 昼間の余韻を残して生ぬるくとぐろを巻いた熱気を、ドアと窓ガラスでシャットアウトして、居間にある年代物のクーラーをフル稼働させ、まもりは受験の参考書と取っ組み合っていた。

 ――るるるるん。るるるるん。

 父親が居間で遠慮なく流している、大音量のナイター中継は耳障りだし、絨毯に寝そべってスマホのゲームをしている、弟のやつは目障りだ。しかしまもりの部屋の四畳半にクーラーは無く、居間から流れ込んでくる冷気だけが頼りなのだ。ふすまを閉めることはできなかった。

 ――るるるるん。るるるるん。

 そしてこちらが『奥の細道』の品詞分解に集中しようと思っているのに、居間の電話がさっきからうるさい。

「ちょっとねえ、電話鳴ってるよー!」

 わかっている。

 栗坂家の男どもは、自分の携帯にかかってこない電話は、絶対に取らない。

「お母さんは?」

「――風呂」

 足下で弟が答えた。スマホの液晶から、まったく視線をそらさぬときた。

 ――るるるるん。るるるるん。

 ああもう。まもりは舌打ちしたくなりながら、シャープペンシルを置いて立ち上がった。

 床に寝そべる弟を踏んづけて、四畳半を出る。弟は、潰れたカエルのような声をあげたが知るものか。

 問題の固定電話。液晶画面には、見慣れない携帯電話番号が並んでいた。

(誰?)

 一瞬ためらうと、目の前で留守番電話に切り替わってしまった。

 まもりは慌てて、受話器を取った。

「――もしもし?」

『……あ、良かった繋がった。こんばんは、栗坂です……って、一緒だね。その声はまもりかな?』

「え――もしかして涼子お姉ちゃん?」

 まもりの声が、うわずった。

 栗坂涼子は、まもりの父方の従姉妹だ。

「うわ、どしたの。すっごい久しぶりだよね。最後に会ったのいつだっけ。おじいちゃんの法事の時? 元気してた? あのとき寝違えてた首治った?」

『元気よ元気ー。ちょー元気。首もちゃんと治った。あのさあ、ちょっと叔父さんか叔母さんに用あるんだけど、いい?』

「え、お父さんたち?」

 まもりは、受話器をおさえて後ろをチラ見した。

 父は阪神にホームランを打たれて、泣き崩れている。

「ごめん、お父さんはナイターで、お母さんは半身浴から出てこない」

『あちゃ。そうかそういう時間帯か……』

 父はひたすら肩を震わせている。こと野球に関する限り、父の涙はユニクロより安い。

「何、お父さんたちに用事って、もしかして結婚の報告? 結婚式するの?」

『ち・が・い・ます。あんたらはもうすぐそれだ。もういいやまもりでも』

 まもりでもとはなんだ、まもりでもとは。

 相変わらず、アバウトで適当な涼子お姉ちゃんである。

『あのさまもり、私ね、転勤の辞令が出たんだ』

「て、転勤?」

『そう。ダラス』

 結婚から転勤。そしてダラス。

 ずいぶん飛んだ。どう考えても、四十七都道府県内にはない地名だ。

 ではどこの国のどのあたり……と言われると、これまた自信がない。大きな都市だというのは、なんとなく分かるが。

「そ、それは……おめでとうって言っていいのかな」

『うん。海外赴任は、ずっと希望してたしね。夢が叶って、私自身はすごい嬉しい。してやったり』

「良かったじゃない」

『で、問題はいま住んでる家なわけよ。まもり、確か今年は受験だって言ってたよね?』

「そうだよ受験生だよ」

『第一志望が律開大だっけ? 池袋の』

「……まあ、夢は大きく持った方がいいって言うし」

 本当は今でも、ちょっと無謀だったかと思っているが。

 旧帝大に余裕で入った涼子にしてみれば、ささやかな私大かもしれないが、まもりにとっては、清水の舞台から飛ぶ大博打だ。この夏にどれだけがんばれるかだと、夏休み前の面談で、担任教師は言っていた。

『じゃあちょうどいいよ。まもり、あんたそこ受かったら、私のマンションから通う気ない? 最長で四年間』

「え、マンション?」

『練馬に借りてる、私のマンション。南向きの1LDK。私の転勤は期限付きだし、終わったら元の部屋に戻ってきたいのよ。家具とか大きいのは置いていきたいし、あんな立地いい場所、借り直すとなったら大変だもん。ね、どう?』

 ――練馬のマンション。

 ――1LDK。

 ――受かったら一人暮らし。

(一人暮らし)

 都内で。

 カチリと頭の中で、何かの鍵が開いた気がした。

「――かっ、通う通う通う! 絶対通う! 一人暮らしする!」

 興奮気味のまもりの声に、栗坂家の男二人の視線が集まった。

 テレビの中の東京ドームは、またも阪神の追加得点。しかしまもりには関係ない。

『そう。じゃあまずは受からないとね。浪人はなしよー』

「ないないないない! 絶対受かる! がんばるから大丈夫!」

 その時のまもりはもう、自分の行く先に、薔薇色の未来しかないと思っていたのだ。

***

 ――いやはや。

 ――一人暮らしって、難しい。

 栗坂まもりが、大学入学を機に一人暮らしを許されるにあたって、親と約束したことが三つある。

 その一、毎日一人でちゃんと起きる。

 その二、戸締まりには気をつける。

 その三、朝・昼・晩、新鮮な野菜をいっぱい食べる。

 はじめにその条件を出された時は、「小学生じゃないんだから!」と反発したものである。

 だが実際に一人で生活をはじめて、一ヶ月半。これがなかなか難しいと知る。

 特に三番目の、『野菜をいっぱい食べる』というやつが。

「……あ、あー。やっぱりダメになっちゃってたか……」

 朝。まもりは冷蔵庫の野菜室を前に、がっくりとうなだれた。

 一週間前にスーパーで買いだめしておいた、特売のレタスと、特売のきゅうり。

 売り場にあった頃のレタス様は、しゃきっと新鮮な感じで、きゅうり様はビニール袋に詰め放題の、超お買い得品だった。

 でもどちらも最後まで使い切る前に、溶けたり異臭を放つようになってしまった。お腐りになってしまった。

(……昨日あたりから、なんかシナシナしてたと思ったら……)

 敗北してしまった。これでサラダを作って食べようと思っていたのに。

 いいかげん安いからと言って、冷凍できないものを大入り袋で買ってはいけないと、学習しないといけないかもしれない。

 まもりは結果としてダメにしてしまった野菜を生ゴミ入れに放り込み、いっそうガランとしてしまった冷蔵庫内を眺めやって思う。

 思えば川崎の社宅で、父と母と弟との四人暮らしをしていた時は、これぐらいの量の肉や野菜など、ぺろっと冷蔵庫からなくなっていた気がする。

 でも今は、1LDKのマンションにまもり一人。

 あの頃の常識やスケール感では、冷蔵庫の食材が消費できずにダメになる一方だと、痛感しているところだ。

(だってほら。キュウリ一本とかレタス四分の一とか買うより、袋入りとかまるまる一個買った方がお買い得な気がするから……ね?)

 目先の数字に飛びつく、貧乏性が恨めしい。

 なまじ冷蔵庫の方が、一人暮らしに不相応な大きさの、3ドアファミリータイプなのも、買い込みに歯止めがかからない原因かもしれない。

 ――いったい涼子は、どうやってここで暮らしていたのだろう。

 まもりが一人暮らしをはじめたこのマンション、『パレス練馬』五○三号室は、本来の借り主がいる。御年二十八歳の独身バリキャリな従姉妹、栗坂涼子だ。

 まもりが物心つく頃から、美人で優秀だった『涼子お姉ちゃん』は、先日ついに海外進出を果たし、ダラスへと赴任してしまった。聞いた時はどこだか分からなかった地名も、今は検索によりアメリカ南部の大都市だと調べがついている。

 最長でも四年という期限付きの転勤で、地の利のある住居を手放すのは嫌だと、かわりにまもりが暮らす話が持ち上がったのだ。

(こんなことでもなかったら、都内のマンションで一人暮らしなんてできなかったよ。家賃だって、普通に借りたら凄そうだし)

 このマンションは、六階建ての鉄筋コンクリート製で、外観は瀟洒なレンガ造り風。築年数こそ古めでオートロックもないが、八畳の寝室に、台所とリビングがあわせて十五畳という広さだ。

 南向きの大きめのベランダからは、さんさんと朝日だってさしこんでくる。

 これで西武線と地下鉄の練馬駅から、徒歩十分という近さ。しかも、まもりが第一志望にしていた池袋の大学にも、一本で行けるという好立地だった。

 受かったら一人暮らしができるという人参を鼻先にぶらさげ、まもりは闇黒の受験期を乗り切ったと言っていい。

 そして晴れて川崎の社宅を出て、こうしてレタスときゅうりを腐らせているわけだ。

 ――まずい。こんな惨状、母に知られたら大変だ。

 もともと母は、まもりの一人暮らしには反対だった。

 川崎と池袋。別に自宅から通えない距離でなし、未成年の女の子が一人暮らしなんて危なすぎるという主張に、あの涼子ちゃんだって普通に暮らしていたんだからと、まもりは必死になって説得にあたったものだ。

『あの子の場合は、別よ。タフじゃなくて鈍すぎるのよ。丈夫なのはいいことかもしれないけど、女の子としてはちょっとどうなのってぐらい。だから浮いた話が出る前に、海外なんてことになっちゃうのよ……』

 とは母親の弁。

 なかなか鋭い、主婦の経験からくる見解かもしれないが、そこはうなずいてはいけないのでがんばった。

「ごめんなさいお母さん。けっきょくサラダも作れませんでした……!」

 まもりは大急ぎで菓子パンをインスタントコーヒーで流し込み、大学へ向かう支度をはじめる。

 なんだか最近、いつもこんな感じだ。

 コンビニのサラダやカット野菜を買うのも、毎度だとお財布に厳しい。庶民の味方だと聞いていた、もやしの足の速さときたら世界陸上なみだ。

 朝はいつだって時間ギリギリで、三食野菜を食べるのお約束も危ういけれど、せめて残りのお約束、戸締まりだけはしっかりとだ。

 まもりは何度もガスの元栓と鍵を確認して、五○三号室の自室を出た。

 エレベーターでマンションのエントランスに降りていったら、ちょうどマンション内に入ってくる人がいた。

(――あ、亜潟さんだ)

 ラッキー。今日はいい日だと勝手に浮かれる。

 彼は、まもりの隣の部屋、五○二号室に住んでいるお隣さんだ。

 年の頃は、たぶん涼子と同じか少し上の、二十代後半だろう。百八十センチ超えのすらりとした長身に、モード系のおしゃれなスーツを着ていつもすれ違うから、勝手にイケメンエリートさんと呼ぶこともある。

 確かフルネームは、亜潟葉二だと言っていたか。

 この亜潟さん。かなり忙しい職についているらしく、お隣の部屋に帰ってくる時間帯は、完全にまちまちだ。まもりが深夜にコンビニへ行く時にすれ違うこともあれば、こうして朝方になって、顔を合わせることもある。

 本日の亜潟葉二氏は、ノーネクタイの黒のワイシャツに、カルバン・クラインのタイトなグレイのスーツという取り合わせだった。大きな図面も入りそうな書類ケースを足下に置き、一階のメールボックスにたまった、チラシや郵便物を取り出している。

 高校や社宅の周辺では、まずすれ違わなかった人種だ。

 朝から亜潟さんに会えるとは、本当についている――。

 思わずその場に立ち止まって、『眼福』という言葉の意味について考えていたら、向こうと目があってしまった。

「――すみません。邪魔ですね」

「いっ、いえ。こちらこそすみません……」

 勝手に突っ立っていたせいで、郵便物を取りたいと思われてしまったらしい。葉二は書類ケースごと一歩横にずれて、あらためてチラシの仕分けをはじめた。

 今さら見とれていましたと打ち明けるわけにもいかず、まもりは低姿勢でメールボックスに近づく。かちかちと、自分の部屋のダイヤル錠を回す。

 それでも気になるのは、やはりお隣の葉二の方だった。

 四月の頭に『居住者交代』の挨拶をした頃より、やや?せただろうか。彫刻刀で鋭く削り出したような輪郭が、いっそうシャープになっていた。

 それでもこの、ちょっと一重気味で理知的な目がいいのだと思う。高く通った鼻筋に、眼鏡をかけたら似合いそうな気がする。もちろん銀縁の細いやつがいい。

 たぶん仕事とか、むちゃくちゃできるんだろうな。そういうのが側にいても伝わってくるというか。

「あの、お仕事、毎日大変そうですね」

「――え?」

 意外そうに葉二が顔を上げた。

「いま帰ってきたんですよね。すごい忙しそうで。大変そう」

 あせるといっそう、どんな顔をしていいかわからない。結果としてしまりのない笑顔になってしまったまもりに、葉二は少し考えこんだ。

「……まあ、忙しいは忙しいですけど……そういう仕事ですから……」

「そうですか!」

「ええ。それじゃあ、お先に失礼します」

「お疲れ様です」

 低いがやわらかい葉二の声音は、ほどよく落ち着いていて、いつまでもまもりの耳に残る気がした。

 エントランスから遠ざかる長身の背中に、ただため息が出る。

(『仕事ですから』か。くー。かっこいいなあ……!)

 自分がいくつになったところで、あんな風にスマートには言えないぞと、感心してしまう。

 いつもすれ違って、たまに挨拶するだけのお隣さん。きっとああいう隙のない人は、冷蔵庫のキュウリを腐らせたりはしないに違いない。

(というより、そもそも自炊しない感じ……?)

 高いワインに合うチーズなどは、完璧にストックしてありそうな気がするが。

 おそらくモノトーンを基調とした、生活感のないリビングにいて、低めの音量でジャズをかけ、ワイングラスを傾ける――そんな亜潟葉二を想像したら、非常にしっくりきた。家具は絶対イタリア製だ。もしくはアメリカの六〇年代アンティーク。

 思いついた映像は満足がいくもので、これでしばらく愉快に暮らせる気がした。

 たとえ自分の郵便物に、いたずらの『怪文書』が交じっていたとしても、強く生きていけるはずだ。

<第2回に続く>