「セックス=愛」だなんて呪縛に苦しみたくない! 性はもっと自由で自分を解き放てるもの【読書日記4冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2019/8/5

2016年7月某日

「私のことを好きじゃないのに、どうしてセックスのときだけ好きと言ったり言わせようとしたりするんだろう」

 甘じょっぱいタレと紅ショウガの酸味が合わさると暴力の味がする。頬の裏にできた口内炎を舌先で撫でながら、私は思った。

 Aとは定期的にホテルで会って、朝に牛丼を食べて帰ることがルーティーンになりつつあった。どういう経緯だったかもあまり覚えていないけれど、何かの拍子で始まった関係を飲み込みどころがわからないイカみたいに惰性で噛み続けている。

 私はAが好きではない。

 そして同じように、Aも私のことが好きではない。

 お互いに好きではないのだから両想いだ。それはそれで健康的な関係だと私は思っていた。

 それなのに、Aはセックスの最中になると好きという単語をよく口にする。好きという感情をセックスに持ち込むとまた断然別のものになってしまう。しかも、その好きが“嘘”なのだから余計にややこしい。ぐちゃぐちゃになったコードの類みたいに頭の中が散らかり始める。

 Aはどうしてそんなことを言うのだろう。好きと聞くと興奮するのだろうか。嘘だってわかってるのに? それとも、好きなフリをしないと私に失礼だとでも思っているのだろうか。勝手な妄想が血管を風船みたいに膨張させてパチンと弾ける。私は鼻息荒く、山手線の改札を潜り抜ける。

 そもそもセックスと愛がイコールだという言説もしっくりこない。

 中学校の頃の保健体育の時間に、「先生は妻を愛している。だからセックスをするんだ」と教壇で熱弁をふるっていた先生がいた。彼は本当にそう思っていたのかもしれないけれど、セックスをしたことがない、愛も知らない14歳の私にはいまいちピンとこなかった。そしてその感覚は、セックスをしても愛というものの輪郭がわからない今も変わらずここにある。

 どうしてみんなセックスと好きを結び付けたがるんだろう。好きの延長線上にセックスがあってもなくてもいい気がする。セックスって愛なのかな。わからない。そもそも愛がわからない。通勤ラッシュの山手線に弾みをつけて乗り込む。人の波に揉まれて私は迷子になった。

 そんなときに手に取ったのが、中村美亜さんの『クィア・セクソロジー』(中村美亜/インパクト出版会)だった。帯文に書かれた「セックス=愛? 愛さえあればうまくいく? セックスするのは誰のため?」という問いが目に入って、気づけばレジで会計をしていた。

 本書は、サンフランシスコのセクシュアリティ研究センターで性科学を学ぶ中村美亜さんによって書かれた本。性暴力やセックスレス、同性愛、性同一性障害などの性にまつわるあらゆる問題を、映画や音楽といった切り口からみることで、性の思い込みを解きほぐし、生きる力を呼び覚まそうというコンセプトのもと書かれている。

 たとえば、「そもそも『セックス』とはPenisをVaginaに挿入する『PVセックス』のみを指すのだろうか」という問いは、私のセックス観を広げ、性の規範から解放してくれた。

 それから、特に合意がないのにセックスを押し付けることを「デートレイプ」と呼ぶことも本書で初めて知った。

「セックスしないっていうのは、愛してないってことでしょう。それなら別れてやる!」

 という発言も、デートレイプの一種だと書かれていた。高校時代、一字一句ほとんど違わぬセリフを当時の彼氏に言われたことを思い出した。愛も知らない人間が、大人の受け売りで虚構の愛を振りかざして暴力を振るう。学校や教師にも依るのだとは思うけれど、学校教育における保健体育はほとんど機能していないなと思った。この本にもっと早く出会いたかった。

 また、音楽家であるジョン・ケージの「4分33秒」という作品を例に出しながら、フェティシズムについて説明した「『4分33秒』とフェティシズム」という章も興味深かった。「4分33秒」は、ピアノの前に座って楽譜を開き、そのまま一音も出さずに静止し、4分33秒後に退場するという作品。何を以て音楽とするかが聴き手に委ねられる作品なのだが、それがフェティシズムに似ていると著者はいう。

 欲情する対象が“一般的”ではない場合、「どうしてこんなものに欲情するんだろう」と理解に苦しむこともあるけれど、「4分33秒」や何気ない日常のどの音に心地よさを感じるかどうかは人の感性による、と聞くと、何だかとても身近なことのように思えてくる。

 この本はこんな調子で、私自身の性の思い込みを解きほぐしてくれた。自分の中の固定観念や偏見に気づき、ショックを受けたところもあった。しかし、読後にはそれ以上の解放感が待っていた。性と自由に戯れることが許されている気がした。そもそも誰にもダメなんて言われていなかったのだけど。

 この本を読んでも、セックスと愛がイコールになる理由はわからなかった。でも、それを良しとする人もいれば、私のように必ずしもそうでない人もいるということだけはわかった。

 セックスや性に対する感性は牛丼のように醤油と砂糖で味付けられた大味ではなく、精進料理のように繊細なものなのかもしれない。違って当たり前で、違っていいのだという事実に背中を押してもらった。

 後日、Aから会おうというLINEが来た。

 私は返信した。

「いいですけど、セックス中に好きとか言うのやめてもらっていいですか。ムードづくりのつもりで言ってくれているのかもしれないですけど、あなたはそれで気持ちいいのかもしれないんですけど、私は気持ちよくなれないので」

 iPhoneをベッドに放り投げる。思っていたことを吐き出したら胸が空いてお腹も空いてきた。何を食べようかなと考える。食べたいものは特になかった。とりあえず牛丼以外にしようと思った。

文=佐々木ののか バナー写真・メイン写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka