棚橋弘至があきらめない仕事術&生き方を伝授!「新日入門テスト」「カウント2.9の魔法」/『逆境からの「復活力」』④

ビジネス

2019/8/14

新日本プロレス、不動のエース・棚橋弘至。「100年に一人の逸材」は、逆境の中でもがきながらも、なぜリングに上がり続けることができるのか? 職場や家庭で孤独を感じ悩める読者の背中を押し、あきらめない仕事術&生き方を伝授する…!

『カウント2.9から立ち上がれ 逆境からの「復活力」』(棚橋弘至/マガジンハウス)

「初心」を忘れず、いつでもチャンピオンを狙う。──新日本プロレスの入門テスト

 毎年、師走になるとソワソワする。クリスマスや年末進行などのせいではなく、苦しみながら突破した新日本プロレスの入門テストを思い出すからだ。これは年に一度、だいたい年末に実施されている。

 新日本のプロレスラーになるには、まずこの入門テストに合格しなければならない。手順としては「身長」「体重」「年齢」などを書いた履歴書、そして上半身と全身の写真を事務所に送り、書類審査を無事通過すると、体力テストの日時と場所が伝えられる。

 僕が大学2回生の秋。新日本プロレスからライオンマークの入った白い封筒が、一人暮らしの部屋に届いた。少しでも新日本プロレスと繋がれた気がして「ウオォォォー!!」と叫んだ喜び、そして緊張はいまだに忘れられない。合格したわけでもないのにすっかり舞い上がってしまった。

 僕は大学に入学してすぐに「プロレスラーになる!」という目標を掲げた。

 クラスで最初の自己紹介のとき、法学部だったので周囲が「弁護士を目指しています」「司法書士になりたいです」と語る中、僕だけ「将来はプロレスラーになります!」と宣言。教室には「じゃあ、大学に何しに来たんだよ?」という空気が充満し、しばらくは誰も話しかけてくれなかった。

 講義の空き時間には大学のトレーニング室に入り浸った。そのおかげで、入学したとき65㎏だった体重は1年後には80㎏にまで増えていた。肉体の変化が夢への思いを加速させる。『週刊プロレス』で新日本プロレスの入門テストの募集告知を目にすると、すぐに履歴書を送った。

 プロレスラーになるには若ければ若いほどいいと言われるが、僕も同じ意見だ。オカダ・カズチカは16歳でデビューしているので、現在31歳にしてすでにキャリアは15年。彼にはいま以上に輝かしい未来が待っているだろう。

 実は僕も入門テストに合格したら大学を辞めて、一刻も早く入門するつもりだった。

 入門テスト前日。大井町のビジネスホテルにチェックインすると、部屋で黙々とヒンズースクワットを繰り返した。

 翌朝、東急大井町線の等々力駅で下車、徒歩で新日本プロレス道場に向かった。到着すると僕と同じようにトレーニングウェア姿でスポーツバッグを持ったテスト生たちが、早速ウォーミングアップを始めていた。

 そして、試験官の橋本真也(はしもとしんや)さんの事前説明が終わり、いよいよテスト開始。他にもブラック・キャットさんなど誰か立ち会っていたような気がするが、緊張していたのであまり覚えていない。

 最初の種目はヒンズースクワット500回。僕は誰よりも大きい声で回数を数えた。続いて腕立て伏せ50回。ゆっくりと全員でペースを合わせてやるので、思いのほかキツい。そのあとは天井から吊されたロープを両腕のみで登る運動や、ブリッジの体勢で3分キープ。

 課せられるメニューをこなしながら、僕は周りのテスト生の様子を伺った。その中に一人、凄い人がいた。試験メニューは交代で行うので、待っている時間がインターバルになるのだが、そのあいだもひたすらスクワットを続けているのだ。思わず橋本さんが「オマエ、待ってるときは休んでろ!」と注意をするほどだった。

 結果的にテストメニューをノーミスでこなしたのは、一目置いた彼と僕だけ。「受かるとしたらこの人かオレだろうなあ」と思いながら、一緒に等々力駅まで歩いて帰った。

 その人こそ、のちに僕と同日にデビューし、引退後は新日本で社員として働いている井上亘(いのうえわたる)さんだった。

 数日後、新日本からわが家に届いた封筒を開けると、無念にも「不合格」の三文字が……。その年、合格者は0人だった。

 のちにわかったのだが、入門には運も大きく左右する。若手で寮がいっぱいのときは合格者が少ないし、入門の基準に達していなくても若手が少ないときは補欠合格になったりすることもある。この年は橋本さんの「今年はナシだな」の一言でバッサリ終わったそうだ。

 僕は新日本のテストを受けることを、周りの友人に触れ回っていたのでバツが悪かった。そして、種目をすべてこなせたのに不合格だったことが、どうしても納得できなかった。

 このモヤモヤした気持ちを晴らすため、僕は行動に出た。新日本プロレスが滋賀県で大会を開催したときに直談判に行ったのだ。

 会場売店でパンフレットを売っていた田山正雄(たやままさお)レフェリーを見かけた僕は「入門テストでメニューを全部クリアしたのに不合格になりました。もう一度テストを受けさせてください!」と訴えた。いま考えると相当恥ずかしいが、田山さんは「じゃあ、また履歴書送って」と丁寧に対応してくれた。

 そして、翌年の春先にあらためて一人で入門テストを受けさせてもらえることになった。結果から言うと、このときも「不合格」。テスト前日の練習後、テンションを上げるために汗だくでプロレス漫画の『1・2の三四郎』を全巻読破し、風邪をこじらせたからだ。

 テスト中にスクワットでフラフラになり、腕立て伏せで潰れて動けなくなった。試験官の橋本さんも困惑顔で不合格を言い渡し、サポートについていた藤田和之(ふじたかずゆき)さんが帰り際に「またがんばりな」と優しい言葉を掛けてくれた。情けなくて涙が出そうだった。

 道場を出ると、極度の脱水症状で意識朦朧(もうろう)のままフラフラと歩いた。「せめて道場が見えなくなる曲がり角までは」と力なく歩を進め、そこでぶっ倒れた。しばらく動けなかったが、近くの自販機でスポーツドリンクを3本購入し、一気に飲み干す。そして、全部吐いた。

 なんとか立ち上がり、また等々力駅までの長い坂道を登る。そのとき、すれ違うタクシーに乗っていた真壁刀義さんと目が合った気がした。入門後にその話をしたら、真壁さんも覚えていた。トボトボと帰る僕の姿を見て「落ちたんだろうなあ」と思ったそうだ。

 入門テストに連続で落ち、迎えた大学3回生。僕は新たに履歴書を用意した。もちろん、三度目のトライをするためだ。その履歴書の抱負の欄には「感じたら走り出せ!」と書いた。

 この言葉は馳浩(はせひろし)さん(元・新日本プロレスで現在は衆議院議員)の著書で見つけたものだ。大学時代の僕はプロレスラーの本を読み漁(あさ)っていた。中でも元・国語教師である馳さんの言葉は、レスラーを目指す若者に響くものがあったのだろう。

「テストに二回落ちたからってなんだ! 俺はこんなことで夢をあきらめない、止まってなんかいられないんだ!」

 そんな思いを込めて、僕は「感じたら走り出せ!」と書き記した。

 のちに僕の履歴書を見た真壁さんは笑ったそうだ。等々力の坂ですれ違ったときのことを思い出し、「アイツ、執念深いなあ」と思ったのかもしれない。

 3回目のテストの頃には体重は85㎏まで増え、体力もさらについた。これまでのテストで痛感したのは、緊張のせいで余分な体力を使ってしまうということ。だから、メニューのスクワットが500回なら、一人でやるときには1000回はできたほうがいい。本番に向けて、大学のトレーニング室で壁に向かって黙々とこなしてきた。

 そして、いよいよテスト当日。僕は馴れた道のりを道場目指して歩いた。多摩川の堤防で開始ギリギリまでウォーミングアップをしていたら、道場に入るのが最後になってしまいアセッた。しかもテスト生が総勢35名なのに対し、ゼッケンが34番までしか用意されていなかった。ということは、最後の自分だけゼッケンなし……。

 何はともあれ、3回目の入門テストが始まった。

 このときは人数が多かったこともあり、メニューについていけなくなったテスト生はその場で不合格を言い渡され、道場から追い出されることに。3回目の僕でもこれには緊張感が増した。テスト生は次々と減っていき、最終メニューであるスパーリングが終わったときにはわずか5人になっていた。そして、試験官の長州さんが言った。

「よし、この5人だ!」

 合格が決まった瞬間だった。このときに受かったのは井上亘さん、自分のスパー相手だった柴田勝頼(しばたかつより)さん、のちに新日本のメディカルトレーナーとなった新島英一郎(にいじまえいいちろう)さん、デビュー前にやめてしまった高校2年生、そして僕だった。

 プロレスラーを目指したのが18歳、時は流れて現在は42歳。僕は「夢はなんですか?」と聞かれると、無冠のときには必ず「チャンピオンになること」と答えている。

 どれだけキャリアを重ねようとも、いつだって僕の目にはトップの象徴であるベルトが輝いて見える。たとえ肉体は変化しても、想いはあの頃のまま。等々力駅から道場まで歩いて向かう大学生だった棚橋弘至の姿が浮かぶのである。