史上初! 平壌郊外の殺人事件を描く衝撃ミステリー。11年前の殺人・強姦事件の犯人とされる男に会うが… / 松岡圭祐『出身成分』②

文芸・カルチャー

公開日:2019/8/18

貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である――。史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸!主人公のクム・アンサノは北朝鮮の警察組織である人民保安省の保安署員。ある日、11年前に起こった凶悪事件の再調査を命じられるが、過去の捜査のあまりのずさんさにショックを受ける。「万能鑑定士Q」シリーズの松岡圭祐による衝撃の社会派ミステリ長編。

『出身成分』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 价川教化所は人里離れた雑木林の奥にある。被収容者は三千人弱、専用の農耕地や果樹園を有する。近隣の工場や鉱山へもバスが往復している。

 充分な食事も与えず、一日十六時間の過酷な労働を強いる監獄だった。建物の外壁は塗り直したばかりらしい。敷地内の道路も舗装ずみで、財務体質はいいようだ。

 ここにかぎった話ではない。教化所や管理所の工業製品や農作物の売り上げが、国の経済をごく一部だが支えている。ささいな犯罪や規律違反でも教化所送りになる風潮は、体制維持のためばかりでない。労働力の確保という至上命題からの要請でもある。

 ほの暗く異臭がする。換気が悪いうえ、壁も床もコンクリートのせいか湿度が高い。医療室まで不衛生だろうか、ふとそんな思いが頭をかすめた。父の影響かもしれない。深く考えまいとした。いまは仕事に集中すべきだ。

 アンサノが通された狭い部屋は、鉄格子の嵌まった小さな窓ひとつを備えるのみだった。薄日が差すものの、雨はいっこうにやむ気配がない。庇から滴下する雫の音が断続的に響く。照明が気まぐれに明度を変える。この地域も電力が安定しない。もっとも停電は起きにくいと思われた。電力不足の折には、近隣の行政区域のほうが先に真っ暗になる。

 事務机に座ってまつこと数分、監視官の制服が、くだんの男を連行してきた。にわかに強烈な体臭が鼻をつく。

 坊主頭のうえ、やせこけた顔に髭はない。栄養失調で骨と皮ばかりの被収容者ぞろいだ、髪と髭まで伸び放題にさせたのでは、いよいよもって識別がつかなくなる。よってどちらも剃る義務がある。

 年齢は五十二だが、十歳以上は老けて見えた。ぼろぼろになった薄手のパジャマがかろうじて痩身を覆う。受刑者服や獄衣は支給されない。毛布や靴、歯ブラシ、石鹸と同じく、自宅にあった生活用品を届けてもらうしかない。

 ごく少量だが私物が持ちこめるため、食糧も隠せるのではと考える連中もいる。だがどんなに手を尽くそうと、ネズミの餌一回ぶんが限度だ。衣類は一着のみときまっている。彼は十一年ものあいだ、労働から就寝まで、このパジャマ姿で過ごしてきた。

 足もとがおぼつかないものの、監視官は手を貸そうとしない。イ・ベオクはふらつきながら、机の向こう側に歩み寄ってきた。腰を曲げるのに難儀するらしい、椅子に座るまでたっぷり時間を要した。

 手錠が重そうだった。背を丸めたベオクの視線は、机の上におちている。憔悴しきっていた。なぜ呼びだされたかと詮索する素振りさえない。

 保安員なのはバッジと腕章でわかるだろう。アンサノは自己紹介を省いていった。「政治犯でもないのに、十一年も娑婆の空気を吸えないままか」

 沈黙がかえってくるかと思いきや、喉に絡む声ながら、はっきりした物言いでベオクが応じた。「運が悪かった」

「運ってのは?」

「貨幣改革のあとだったらな」

 監視官が目を怒らせ、ベオクに詰め寄る気配をしめした。

 ため息が漏れる。いまは水を差してほしくない。アンサノは紙幣を一枚取りだし、指先につまんでみせた。監視官の動きがとまった。その手が紙幣を握りとり、ポケットにねじこむ。監視官は踵をかえした。廊下へと立ち去っていく。片時も目を離してはならない、そう厳命されているはずが、監視官は黙って後ろ手に扉を閉めた。

 この国の常識だった。頼みごとには賄賂。少額すぎる場合を除き、取引を拒絶する者はまずいない。欧米のチップと同様、重要な生活の糧となる。

 静寂のなか、ベオクがかすかに鼻を鳴らした。「ひところは紙くずだったよな。価値を持ち直したか」

「体制批判はよせ。特に監視官の前ではな。教化所暮らしを長びかせたいのか」

「事実を口にしたまでだ」ベオクは悪びれたようすもなくつぶやいた。「あと二年遅けりゃ、こうはならなかった」

 ベオクの主張はあながち的はずれでもない。貨幣改革は何度かあったが、主体九八年の話だろう。西暦でいえば二〇〇九年。無茶なデノミ政策のせいで国じゅうが混乱した。

 旧ウォンを新ウォンに百対一で交換。交換額の上限は一世帯あたり十万旧ウォン、多少ゆとりある市民ひと月ぶんの生活費にすぎなかった。それ以外の旧貨幣は、いくら貯めこんでいようが、布告の翌月には無価値となる運命だった。

 社会主義体制下では個人の貯蓄が禁じられているが、ひそかに財産を築きあげた連中は少なからずいた。貨幣改革を機に、みな破産に追いこまれた。商売も事実上禁止だったが、配給の滞った食糧を確保するため、誰もが闇市場で私物を売りさばいてきた。そういう副業もすべて淘汰された。

 富裕層の騒乱をせせら笑っていた貧困層にとっても、他人ごとではなかった。デノミにつづき超インフレが発生、異常なほどの物価高につながり、餓えたる民はいっそう餓えた。自殺や殺人が頻発し、市街地の道端にホームレスがあふれた。

 主体八四年の大飢饉を乗りきった生存者らは、当然ながら体制への強い不満を抱えていた。それから十四年後、今度は貨幣改革の失敗に直面した。少年団に入る前から忠誠を誓わされた国家への幻想が、もろくも崩れ去った。もはや限界だった。誰もが憤りを爆発させた。保安署どころか保衛省までが影響力を失い、大衆の反発を抑えきれなくなった。いつしか闇市場が復活し、半ば公然と商取引が再開された。なし崩しに国営以外の商店が建ち並んでいった。ささいな倫理違反で強制移住を命ずる権力行使は、いまや時代遅れの蛮行と見なされつつある。

 アンサノはベオクを見つめた。「知ってるか。副業禁止の原則を頑なに守り、国営農場に生涯を捧げた朝鮮労働党員は、市場経済化に乗り遅れた。そんな極貧夫婦のひとり息子が、暮らしぶりに不満を募らせ、商人のスマートフォンを盗んだ。つい半年前のことだ」

「スマートフォンか。便利だってな」ベオクが軽い口調でたずねてきた。「あんた持ってるか」

「いや。緊急時のみ支給される。常時携帯を許されてるのは、いまだに上層部だけだ」

「外国のネットにつながるのか」

「わが国の言語のみ、検閲ずみのサイトにかぎられる」

「だろうな」

「そのスマホ泥棒だが、じつは兵役帰りの青年だった。駆けつけた保安員にまで暴力を振るったため、教化刑八年がいいわたされた」

「八年? ずいぶん生ぬるいな」

「ところが近所の住民から抗議の声があがった。たかが泥棒と暴力で八年は長すぎると」

「耳を疑うぜ」ベオクのまなざしは醒めきっていた。「そこまでやって八年じゃ短いほうだ。しかも公然と文句をいえる連中がいるなんてな。以前なら家族も含め教化所送りだ」

「一部は連行された。それでも抵抗はやまない」

「馬鹿なやつらだ。不満を叫ぶより、もっといい方法があるだろうが」

 袖の下、そういう意味だろう。アンサノは首を横に振った。「青年の両親に余裕はない。差しいれもトウモロコシの粉だが、それすら滞りがちだ」

「親近感が湧く。ここも飯はひと握りの飼料用トウモロコシ、飲み物は塩水だけときてるんでな」

「暴行罪なら最高刑でも一年の労働鍛錬刑ですむ。だが被害者が重傷を負ったり死んだりしたら、五年以上十年以下の労働教化刑になる。青年に殴られた保安員はそこまでの怪我じゃなかった。よって住民は五年以下の労働鍛錬刑を求めてる」

「笑わせてくれる。どういう風の吹きまわしだよ。いまさら法令を遵守する方針に転換したってのか。俺はどうなる」

「あんたは人を殺しちゃいない。負傷させてもいない。だが何者かによる強姦と殺人を黙認し、虚偽の証言をおこなった」

「黙認も虚偽もおぼえがない」

「教化所送りになった理由として、出身成分と素行の悪さが指摘されているが、それでも処分が重すぎる」

「ああ。俺はもともと悪いことをしちゃいねえからな」

「その主張も含め、再度吟味すべしとの命が下った」

 ベオクの死んだ目に、鈍りがちな脃い光が宿った。「一介の保安署員ごときが、いまさら俺を助けようってのか」

 ふいに嫌気がさした。きょう初めて会ったばかりの、薄汚い身なりの反抗的な輩を救う、そんな義理がどこにある。骸骨も同然の外見に、口臭もひどい。薄毛に肌荒れ。対面しているだけでも吐き気がこみあげてくる。

 アンサノは腰を浮かせた。「邪魔したな」

「まちなよ」ベオクがあわてぎみに引き留めた。しばし無言でアンサノを見つめたのち、ふいにベオクは口もとをゆがめた。「俺みたいなやつの処遇まで気にかけるなんて、よっぽどトランプが怖いのか。お偉方、脅されてびびってんだろ? まともな国になれとせっつかれてるんだよな?」

「まともな国だからこそ、俺があんたの言いぶんをききにきてる」

 ベオクが失望のいろを漂わせた。「ああ。あんた、そっち側の人間だったんだったな。忘れてた」

「あまり調子に乗るな。どこの国だって、こういう時代を経てる。たかが一世紀の差だ」

「保安署勤めのあんたが、いまは混迷の時代だって認めるのかよ」

「成長前の過渡期だ。外国人だって、この国に生まれてりゃ、俺たちと同じ立場だ」アンサノは居ずまいを正した。「本当はそんなこと頭にないだろ? みんなそうだ。明日は食えるのか生きられるのか、関心ごとはそれだけだからな。本気で党を恨んでもいない。いまさらいっても始まらないってあきらめが半分と、いいこともあったと懐かしむ気持ちが半分と」

「どうあっても反体制の存在を認めねえんだな」

「俺はな、あんたに正直になってほしいだけだ」アンサノは身を乗りだした。「時代は迷いながらも前に進んでる。人民が耐えしのびながら望んだ夜明けが、すぐそこまできてるのかもしれない。だから正確を期したい」

「泣ける演説だな」

「全保安署に、疑わしき過去の事例を洗い直すよう通達があった。せっかくの機会を棒に振るのか。ろくに成果があがらなきゃ、それを理由にまた近代化への道が閉ざされちまう」

「そんなこといって、真実に行き着いたところで、誰かの賄賂で元の木阿弥じゃないのか」

「いや。袖の下なんか受けとらない。悪しき習慣に染まったままじゃ過去から抜けだせない」

「本気でそう考えてるんだとしたら、あんた変わってるな」ベオクが真顔になった。「正気を疑うよ。この国の保安員としてはな」

第3回に続く

松岡圭祐
1968年、愛知県生まれ。デビュー作『催眠』がミリオンセラーに。大藪春彦賞候補作「千里眼」シリーズは累計628万部超。「万能鑑定士Q」シリーズは2014年に映画化、ブックウォーカー大賞2014文芸賞を受賞、17年には吉川英治文庫賞候補作に