「永遠記念日」『ショートフィルムズ』①

文芸・カルチャー

更新日:2019/9/2

『ショートフィルムズ』(ブックショート/学研プラス)

ブックショート(米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジアが展開する短編小説公募プロジェクト)とのコラボレーションした、書籍『ショートフィルムズ』。感動的な短編映画を観たような読後感の、傑作短編全25話を収録! 本書への入り口は、セリフのないサイレントマンガで始まる。マンガは各短編の合間に入り、物語全体をひとつの世界につなぎ、最後に驚きの結末が…。

永遠記念日

 私が死んでからというもの、夫の落ち込みようといったら目を覆いたくなるほどだ。食事もろくにとらず、会社を休んで毎日泣いては眠り、起きては泣いている。夫は大概のことは楽しみ、いつも笑っているような人だから、こんな姿を見るのは初めてだ。

 そんな日々が2週間ほど続いた日の夜、大学帰りの娘が「せめてもの癒し」と言って猫を買ってきた。娘がずっと猫を飼いたがっていたことは知っていたが、私が猫アレルギーだったため、猫を飼えなかったのだ。私が死んだとたんに猫を買ってくるあたり、さすがに我が娘といったところだ。

「必要以上の無駄な気遣いをしない優しいキミが好きだ」と私に言った夫は、私にそっくりな娘を、私と同じくらい愛している。

 この娘がいることは、私を失った夫にとっては何よりの救いに違いない。

 夫は、少しずつ元気を取り戻しつつあった。会社にも復帰し、しだいに飼い猫とじゃれあって笑顔を見せるようになり、いつしか私がいないことが当たり前の日常となっていった。私がいなくても、もう大丈夫だろう。そう思った。

 それにしても、どうして私はいまだにこの家にいるのだろうか。そのうちに天国からお迎えが来るのだろうとばかり思っていたのだが、一向にその気配がない。

 まさか、このまま浮遊霊になってしまうのだろうか。生前と同じくこの家に住むのも、それはそれで悪くはないが、目の前にいるのに夫や娘と話すことができないのは、なかなかつらいものがある。自分が今どういう状態なのか、いつまでこのままなのか、誰かに質問したくても聞く相手がいないのだ。この世に特別な未練もないのに、どうしてお迎えが来ないのだろう。

 どうにか夫や娘と会話ができないかといろいろ試してみたが、やはり私の声は彼らに聞こえないようだ。そういえば、テレビで時々見かける太った霊能者は、霊と会話ができると言っていた。ああいう類の人を連れてきてもらえないかと誰かに頼んでみようとも考えたが、そもそも私の声が誰にも聞こえないのだから、頼みたくても頼めない。私はあきらめて、しばらくはこのまま緩慢な日々を過ごすことにした。

 時々ふらっとご近所を徘徊する程度で、あとはただただ夫と娘を眺めながら過ごす毎日ではあったが、こうしてゆっくり2人を眺めていたことなど生前はほとんどなかったので新鮮だったし、言いようのない幸福感を味わえた。

 窓から見える大通り沿いに桜の花が咲き始めた頃、ふと、そういえばもうすぐ結婚記念日だなぁと思い、ぽつりとそうつぶやいたその時、目の前でコーヒーを飲みながら手帳を眺めていた夫がつぶやいた。

「もうすぐ結婚記念日だねぇ」

 以心伝心。さすが我が夫だ。その調子で私の声も聞こえてくれればいいのに。

 娘と一緒に夕食を食べている時、夫が娘に話しかけた。

「来週の水曜日は、ちょっと仕事を休んで出かけてくるよ」

 娘と私は、同時に壁かけのカレンダーを見た。来週の水曜日。私たちの結婚記念日だ。娘も察したように、「うん、わかった。帰りは遅くなるよね」と答えた。

 結婚記念日は、毎年2人でお決まりの場所へ行き、デートをしていた。今年は、夫ひとりであそこへ行き、私との思い出に身を委ねようということだろうか。

 お決まりの場所とは、大学時代に夫が私に交際を申し込み、交際から丸3年の日にはプロポーズをしてくれた場所だ。交際開始記念日であり、プロポーズ記念日であり、結婚記念日でもあった。その日、その場所で過ごすことに意味があったし、何より私たちはその場所がとても好きだった。

 結婚記念日の今日、私は夫について行くことにした。会話はできないが、毎年欠かさずしてきたデートだ。夫ひとりで行かせるのはあまりにも切なかった。電車に2時間乗り、さらにバスで30分のところにあるのは、夫の生家だ。もうずいぶん古くなったログハウス調の一戸建てに、夫は高校を卒業するまでずっと住んでいたそうだ。湖の目の前に建てられているその家は、夏は涼しく、とても居心地がよい。もう古い家だし長く住むことはないが、こうして時々訪れては手入れをして、別荘として利用している。

 あの日、「いいところがあるんだ」と言って私を連れ出し、初めてここへ連れてきてくれた。そして、正式に交際が始まった。おしゃべりの好きな夫だが、その日は特にたくさん話した。夫の両親は、夫が高校3年生になった春に事故で亡くなったということも、その日に夫が話してくれた。さいわい、ご両親の生命保険と遺産のおかげで、夫はどうにか東京の大学へ進学し、そして私と出会った。

 今、夫もきっと懐かしんでいるのだろう。少し微笑みながら、「ただいま」と小声でつぶやき、扉を開けた。来る途中のスーパーで購入したワインとチーズ、いくつかの食材をテーブルに置き、簡単に掃除をした後で、料理を始めた。毎年の恒例行事、いつもと同じだ。毎年この日は夫が手料理を振る舞ってくれる。初めて来たあの日もそうだった。

 いつしか私は、自分が死んでいることも忘れて、夫の背中を眺めながら幸せを噛みしめていた。この人と結婚してよかった。心からそう思う。

 やがて料理ができあがり、テーブルクロスの上に並べていく。ちゃんと2人分用意してある料理を見たら、私はしだいに切なくなり、どうして死んでしまったのかと自分を責めた。こんなに愛している夫を残して死んでしまったことが、何よりつらかった。

「こんなに早く死んじゃって、ごめんね」

 自然と言葉がこぼれたその時、夫がつぶやいた。

「気にするなよ。むしろ俺が先に死んだりしなくて、よかったと思ってるよ」

 私は驚き、まさか私がここにいることに気づいているのだろうかと、夫に話しかけた。

「怒ってない?」「怒るもんか」「いつから気づいてたの?」「猫が来た日。あの猫さ、俺に言うんだよ。『奥さん、そばにいるけど、今は気づかないふりしなきゃダメだよ。話しかけたら、すぐ天国にいっちゃうよ』ってね」

 猫がしゃべる? そんなまさか。

「俺も驚いたけどね。でもたしかにキミの気配を感じるし、声も聞こえるから。ただ残念だけど、姿は見えないんだ」

「どうして、今日は話しかけてくれたの?」

「特別な日だからだよ。今日は、交際開始記念日であり、プロポーズ記念日であり、結婚記念日であり、そして、キミが天国に旅立つ日なんだ」

 私は涙が止まらなかった。いや、実体がないのだから、涙など出ていないのだろうが、私は泣いていた。天国からのお迎えがなかなか来なかったのは、こういうことだったのか。死んでから今日までの時間には、意味があったのだ。あの猫は、天の使いなのだろうか。

 最後の晩餐、私は食べられないが、テーブルに向かい合って夫と一緒にたくさん話をした。夫は久しぶりのワインでいい気分になっているようで、そんな夫を見ているのも嬉しかった。しかしそれも今日で最後なのだ。私は寂しくなり、無言になってしまった。

「……なぁ、まだいるかい? 行く時にはちゃんと教えてくれよな」

 そう言いながら、夫も涙を流している。

 夫には、2度も別れを味わわせてしまうことになる。

「ごめんなさい…」

 その一言で、私の気持ちが通じたようだ。

「死んだと思ったキミに、また会えた。それだけで、もう十分さ。前のように廃人みたいにはならないから、心配しないで。ありがとう、俺と結婚してくれて」

「私も、幸せだった。本当にありがとう。病気しないでね。体に気をつけて」

 どうしてもっと気の利いた言葉が出てこないのか。ふだんから「必要以上の無駄な気遣い」をしておくのだった。そんな気持ちも、夫はすべて見透かしている。

「キミの気持ち、ちゃんと分かってるから。キミらしくいてくれればいいよ。必要以上の気遣いをしないのは、相手に気を遣わせないためのキミの優しさだ。心配しないで」

 テーブルの上に唐突に、天の使いの猫が現れた。実体はなく、透き通ってうっすら光っている。天の使いは、私に向かって、「お話できてよかったね」と言いながら微笑んだ。

 本当に、もうこれで最後なのか。たまらなく寂しくなり、夫を見つめる。そんな私の気持ちを見透かしたように、猫が私たちに言った。

「安心して。2人はまた、“あっち”で再会できるから」

 本当だろうか。しかし、説得力のある言葉だった。

「行こうか」

 と猫が言った。

「それじゃ、またな」

 夫は笑顔でそう言った。まるで学生時代、交際が始まる前の帰り道のように。

「うん。またね」

 妻が消えてしまったあの日、俺はぽつんと1人きりになった実家の椅子で、寂しさと悲しさに身をよじってむせび泣いた。1晩泣き続けた。しかし、妻が死んだあの日のような絶望感はなかった。最後にまた大好きな妻と、笑顔で話すことができて、あの猫には心から感謝している。しかし、娘が買ってきた猫は、実家から帰ったら、もう普通の猫になっていた。

 不思議な出来事だったが、夢ではない。いつかまた妻に会う日を、心待ちにしていたいと思う。次に会ったときには、娘のことや、あの日からどんなに色々な出来事があったか、たくさんの話題で、妻を死ぬほど笑わせてやりたい。再会した時、きっと俺はこう言うだろう。

「やっと会えた。もう、2度と離れなくてすむ。これから、2人一緒の永遠の日々が始まる。今日を永遠記念日にしよう」

(作 藤崎伊織)

表紙写真:岩倉しおり

<第2回に続く>