元恋人との再会が、甘い地獄のはじまりだった…/ 大石圭『溺れる女』①

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/7

――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

『溺れる女』(大石圭/KADOKAWA)

プロローグ

 大都会の真ん中に摩天楼のように聳(そび)え立つ高層ホテル。

 その上層階の静まり返った廊下をひとりの女が歩いている。薄いストッキングに包まれた細い脚を震わせ、黒く光る樹脂製のキャリーバッグを引いて歩いている。

 女はその骨ばった体に張りつくようなワンピースを身につけている。胸から上の部分が剥き出しになったワンピースで、黒くて薄い生地を通して臍(へそ)の窪みや突き出した腰骨の形がはっきりとうかがえる。女がまとったワンピースの裾は、ほんの少し身を屈めたら下着が見えてしまいそうなほどに短い。

 女が一歩踏み出すたびに、身につけているアクセサリーの数々が揺れて光る。恐ろしく高いパンプスの細い踵が、廊下に敷き詰められた分厚いカーペットに深々と沈み込む。

 強張った女の顔には素顔がわからないほど濃密な化粧が施されている。痩せた体からは、スズランやジャスミンの花を思わせる甘い香りが立ち上っている。

 廊下にはそれほど強い冷房が利いているわけではない。それなのに、剥き出しになった女の腕や肩は鳥肌に覆われている。その女には皮下脂肪がほとんどないために、寒さにひどく弱いのだ。

 長くて真っすぐな廊下の両側には、マホガニー製のドアがずらりと並んでいる。そのドアのひとつの前で、女はその足を止める。骨ばった手を胸に当てて深呼吸を繰り返す。女の手の爪は派手な色のエナメルに彩られている。

 大丈夫よ、奈々(なな)。大丈夫。大丈夫。嫌なことなんて、あっという間に終わってしまうのよ。

 心の中で、女は自分に言い聞かせる。それから、恐る恐る右手を伸ばし、分厚いドアをそっとノックする。

 ノックの数秒後に、目の前にあるドアが静かに開かれた。

 ドアを開けたのは、でっぷりと太った中年男だった。男は大柄な体に白いタオル地のバスローブをまとい、ホテルのロゴマークの入った白いスリッパを履いている。

 バスローブの裾から突き出した男の太い脛には、真っ黒な縮れた毛が密生している。はだけたバスローブのあいだから覗く胸も、同じような毛に覆われている。

「皐月倶楽部のアケミです」

 男の胸の辺りを見つめた女が、声を震わせて言う。

 外国人だというその男には、もしかしたら、女の言葉が理解できなかったかもしれない。それでも、男は無言のまま女を室内に招き入れ、その直後に分厚いドアをそっと閉めた。

 彼女はこれまでにも、このホテルの宿泊客から何度となく呼びつけられていた。だから、いろいろなタイプの客室の造りを知っていた。彼女が今いる部屋はデラックス・ツインルームと呼ばれるタイプで、ほかの多くの客室と同じように、カーテンを開け放った大きな窓から大都会の夜景が一望できた。光に埋め尽くされたその夜景は、地上の銀河のようだった。

 女が室内を見まわしているあいだ、男のほうは、彼女の体を値踏みでもするかのように不躾に見まわしていた。

 やがて男が、肉に埋もれかけている小さな目で、女の目をじっと見つめた。

 その瞬間、女はぶるるっと身を震わせた。

 けれど、その震えが恐怖のためなのか、寒さのためなのかはよくわからなかった。女にはもう、それを考えている余裕もなかった。

 男は無言のまま女に歩み寄ると、痩せたその体を骨が軋むほど強く抱き締めた。そして、女の唇に自分のそれを無造作に重ね合わせ、女の口の中を舌で掻きまわしながら、ほんのわずかな膨らみしかない胸を太い指で乱暴に揉みしだいた。

「うっ……むっ……うむうっ……」

 胸を荒々しく揉まれた女が、濃い化粧が施された顔を悩ましげに歪めた。女は骨ばった体を左右によじりながら、男の口の中に苦しげな呻き声を漏らした。男のキスはとても執拗で、息が止まってしまいそうだった。

 男は十数秒にわたって唇を貪りながら、女の乳房を揉みしだいていた。それから、ようやく手を放し、身につけていたバスローブの紐を解いて、その合わせ目を左右に広げた。

 バスローブの下に男は下着を身につけていなかった。黒々とした毛に覆われた男の股間では、男性器がほとんど真上を向いてそそり立っていた。

 男が言葉を口にした。だが、女にはその外国語を理解することはできなかった。

 次の瞬間、男が太い右腕を無造作に伸ばした。そして、女の髪をがっちりと鷲掴みにし、その手に強い力を込めて彼女の頭を押し下げようとした。

「あっ……いやっ……乱暴はやめてください」

 髪を掴まれた女が、声を喘がせて訴えた。

 だが、男にはやはり、日本語がわからないようだった。それとも、わかっているのだろうか?

 いずれにしても、彼女はすでに、その男が自分に何をさせたがっているのかを理解していた。以前にも別の男たちに、同じようなことをさせられたことが何度かあったから

女は細い脚を折り曲げて男の足元に蹲った。ただでさえ短いワンピースの裾が大きくせり上がり、太腿のほとんどすべてがあらわになった。

 跪いたことによって、剥き出しの男の股間が彼女の顔の真ん前に位置する形になった。

 できることなら、男にシャワーを浴びてきてもらいたかった。けれど、彼女にはそれを口にする資格が与えられていなかった。

 そう。ここで彼女に許されているのは、服従することだけだった。

 男が自分の性器を握り締め、分泌液に光るその先端を女の唇に近づけた。

 頑張りなさい、奈々。頑張るのよ。頑張るのよ。

 女は自分にそう言い聞かせ、アイラインに縁取られた目をしっかりと閉じた。そして、すぐ目の前にそそり立っている男性器に口を寄せ、鮮やかなルージュに彩られた唇をそこにゆっくりと被せていった。

第一章

 山あり谷ありの暮らしは、もう終わったのだ。一ヶ月後のことどころか、あしたのことさえ見当がつかないような日々は、もう過去のものになったのだ。

 あの頃、わたしはそんなふうに考えていた。これから先は、平凡で退屈で、面白みがないかもしれないけれど、平らで見通しのいい安全な道を、静かな気持ちで歩いていくことができるのだ、と。

 そんなわたしの人生が、再び音を立てて動き始めたのは、七月半ばの日曜日、とても蒸し暑い日の夕暮れ時のことだった。

 その午後、わたしは婚約者の飯島一博(いいじまかずひろ)とふたりで都内にある大きな結婚式場にいた。数人の女性スタッフの甲斐甲斐しい世話を受けながら、三ヶ月後の式で身につけるウェディングドレスや、お色直しの時に着るドレスなどを選んでいた。

 ここ数日と同じように、きょうも猛暑日になる予報で、午前中から気温がぐんぐんと上がっていた。わたしと会ってからの一博は、「暑い」「暑い」と馬鹿のひとつ覚えのように繰り返していた。建物の中には強すぎるほどの冷房が利いていたにもかかわらず、一博にはまだ暑くてたまらないようで、分厚い脂肪の層に覆われた彼の体からは汗のにおいが絶え間なく立ち上っていた。

そんな一博とは対照的に、ドレスを選んでいるあいだ、わたしはずっと震え続けていた。皮下脂肪がほとんどないためか、わたしは極端に寒さに弱いのだ。

 一月に何十組ものカップルが結婚式を挙げるというその式場には、数百着という数のドレスが用意されていた。そんなこともあって、わたしはひどく迷い、九着か十着ものウェディングドレスを試着した。

 新たなドレスを身につけたわたしの姿を目にするたびに、一博は「うん。すごく似合う」「そのドレスも似合うなあ」「さっきのもいいけど、こっちのほうが素敵かなあ?」「奈々ちゃんは脚が綺麗だから、ミニのドレスもいいなあ」などと興奮した口調で言った。

 その彼の言葉が、わたしをさらに迷わせた。

「ああっ、僕にはもう、何が何だかわからない。ドレスの件は奈々ちゃんに一任するから、奈々ちゃんがいいと思うものに決めてくれ」

 ついには一博が、投げやりな口調でそう言った。

「そんなこと言わずに、カズさんも一緒に選んでよ」

 わたしは口を尖らせて抗議した。一博との交際を始めてすぐに、わたしは年上の彼を『カズさん』と呼ぶようになっていた。彼のほうは、いつの頃からかわたしを、『奈々ちゃん』と呼んでいた。

 奈々ちゃん。

 両親や祖父母にそう呼ばれたことはない。友人たちからも『奈々ちゃん』と呼ばれた記憶はない。けれど、一博と付き合う前から、わたしはその愛称で呼ばれることに慣れていた。

「僕はもうダメだ。どれが良くて、どれが悪いかなんてわからないよ。奈々ちゃんも知っての通り、僕はまるでモテないから、女の服のことはちんぷんかんぷんなんだ」

 式場の女性スタッフたちが目の前にいるというのに、彼は自分が『モテない男だ』ということを宣言した。

 わたしは思わず微笑んだ。彼のそんな率直さも、わたしの好きなところだった。

 十月の半ばにわたしの夫となる飯島一博は、わたしより五つ年上の三十四歳だった。身長が百六十センチしかない彼はわたしより背が低く、手足が短くて、ずんぐりとした不恰好な体つきをしていた。聞いたところによれば、体重は百キロほどあるということだった。おまけに色白の赤ら顔で、鼻が低くて目が細くて、美男子という言葉の対極にいるような人だった。さらにその上、頭のてっぺんが禿げかかっていたから、今まで彼と付き合ってもいいと考えた女がひとりもいなかったというのはもっともな話だった。

 それでも、一博と結婚することに迷いはなかった。それは一博が名の知れた総合商社に勤務する高給取りだったからではなく、彼の人柄に惹かれたからだった。

 一博はいつも朗らかで、にこやかで、どんな時でもわたしに優しく接してくれた。そして、わたしのことを娘のように甘えさせてくれた。

 甘えることに慣れていないわたしに、彼は甘えることの心地よさを教えてくれたのだ。

 一博は今、仕事がとても忙しいようで、土曜日や祝日にもたいてい出社していた。そんなこともあって、わたしとは日曜日にしか会えないことが多かった。

 迷い迷った末に、わたしは海外から輸入されたという光沢のあるサテン地のドレスを式で着ることに決め、試着室でそれをもう一度身につけた。最終的にわたしが選んだのは、胸から上の部分が剥き出しになった真っ白なベアトップのドレスで、レースがふんだんに使われていて、ふわりと広がった長いスカートがとてもゴージャスで、ウェストの部分が細くくびれたものだった。

「うわーっ、綺麗だなあ。奈々ちゃん、ファッションモデルがいるみたいだよ」

試着室を出たわたしを見つめた一博が、興奮したように言った。

「お客様はスタイルが本当によくていらっしゃいますから、どんなドレスもお似合いですけど、実はわたしもさっきから、ウェストの細さが際立つこちらのドレスがいちばんお似合いだと思っていたんですよ」

 二時間以上ものあいだ、ドレス選びに根気よく付き合ってくれた若い女性スタッフが、にこやかな笑顔を浮かべてそんなお世辞を口にした。

「そうかしら?」

「ええ。まるでお客様のためにオーダーメイドされたみたいですよ」

 女性スタッフがなおもお世辞を言い、わたしは大きな鏡に映った自分の姿をまじまじと見つめた。

 一博が言った通り、鏡の中の女の体には皮下脂肪がほとんどなく、肩が鋭く尖っていて、二の腕が引き締まっていて、ファッションショーのステージを颯爽と歩いているモデルたちに負けないほどに痩せていた。ウェストは本当に細くくびれていて、自分でもどこに内臓を収めるスペースがあるのだろうと思ってしまうほどだった。

 一博が化粧の濃い女を嫌うので、ふだんのわたしはほとんど化粧をしない。けれど、きょうはうっすらと化粧を施していた。左の薬指ではきょうも、一博から贈られた大粒のダイヤモンドが光っていた。

「奈々ちゃんがハイヒールを履いているのを初めて見た気がするな」

 わたしの足元を見つめた一博が、急に思いついたかのように言った。わたしはスタッフの女性が用意してくれた、とても踵の高い純白のパンプスを履いていた。「ハイヒールは好きじゃないんだけど、奈々ちゃんにはよく似合ってるよ」

「そうね。わたし、ハイヒールはめったに履かないから」

 さりげない口調で、わたしは言った。

 けれど、それは嘘だった。

 一博は何も知らないけれど、わたしは踵の高い靴を履くことに慣れているのだ。

 式場を出たのは、もう少しで午後五時になろうかという頃だった。わたしたちは歩いて数分ほどのところにある地下鉄の駅に向かって、急な坂道をゆっくりと上っていた。式場の近くには高校や大学があるせいで、歩いているのは若い人たちばかりだった。

 太陽はかなり西に傾いてはいたけれど、気温はいまだに高いままだった。風はなく、空気はじっとりと湿っていて、まるでサウナにでも入っているかのようだった。

「奈々ちゃん、駅までタクシーに乗ろうよ」

 坂道の途中で足を止めた一博が喘ぐように言った。苦しげに歪んだ彼の顔は汗まみれで、たっぷりと肉のついた顎には汗の雫が溜まっていた。

 太っているせいか、一博は体を動かすのが嫌いだった。いや、体を動かすのが嫌いだからこそ、こんなにも太ってしまったのかもしれなかった。

「でも、駅は目と鼻の先よ。カズさん、頑張ってもう少し歩きましょうよ」

 坂道の前方を指差してわたしは言った。できることなら、冷房の利いたタクシーに乗りたくなかったのだ。

 一博には申し訳なかったけれど、冷房で体の芯まで冷えきっていたわたしには、この気温の高さがとても心地よかった。

 周りを歩いている若い女たちの多くは、腕や脚を剥き出しにしていた。タンクトップの裾から臍を覗かせている女の子もいた。けれど、寒がりのわたしは白い半袖のブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織り、少し厚手のチェックのパンツという格好をしていた。背の低い一博がハイヒールを嫌うので、きょうもわたしはペタンコのパンプスを履いていた。

 わたしたちはこれから、一博が予約したフランス料理店でフルコースの夕食をとることにしていた。脂っこいものに目がない彼は、バターをたっぷりと使ったフランス料理が好きだった。

「わかったよ、奈々ちゃん。それじゃあ、駅までなんとか頑張るよ」

 息を切らせて一博が言い、再び足を引きずるようにして歩き始めた。

 一博に微笑んでから、わたしは顔を上げた。そんなわたしの視界に、前方から歩いて来る男の姿が飛び込んできた。

 その男とわたしたちはまだ三十メートル以上は離れているというのに、彼がすらりとした体つきで、かなり整った顔立ちをしていることが何となく見て取れた。

 わたしたちは急な坂道を登り続け、すぐに前方から歩いて来る男の顔がはっきりと見えるようになった。

 その瞬間、思わず声が出そうになった。けれど、わたしは喉元まで出かかったその声を、何とか抑え込んだ。

 急な坂道の途中で擦れ違う時に、その男と目が合った。整った男の顔に、微かな驚きの表情が現れた。

 そう。彼もわたしに気づいたのだ。

 もちろん、わたしは足を止めなかった。

 きっと彼は立ち止まったのだろう。けれど、それは定かではない。わたしは振り向かなかったから。

第2回に続く

大石圭
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。
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