あの男とは、出逢ってはいけなかった…なのに。/ 大石圭『溺れる女』④

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/10

――彼と出逢ってしまったのが、 悲劇のはじまり。 『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』の大石圭、最新作。 著者渾身の「イヤミス」ならぬ「イヤラブ」小説。

『溺れる女』(大石圭/KADOKAWA)

4

 江口慎之介(えぐちしんのすけ)と出会った時、わたしは法学部の三年生だった。当時、わたしが所属していた文芸サークルに、経済学部に入学したばかりの彼が入ってきたのだ。

 わたしが法学部に進学したのは、法律に関係する職に就きたいと望んでのことだった。けれど、心のどこかでは密かに『小説家になれたら、素敵だろうな』とも考えていた。本を読むのが好きだったわたしは、高校生だった頃から自分でも小説を書いていた。

 わたしが所属していたサークルは定期的に文芸誌を発行していて、サークルのメンバーは順番でその雑誌に小説や戯曲やエッセイなどを発表し、全員でその批評をしていた。サークルの会員の多くは、わたしと同じように小説家になることを夢見ていた。

 男子禁制というわけではないのだが、そのサークルでは四十数人のメンバーのほとんどが女子学生で、男子学生は数えるほどしかいなかった。その年は新しい男子会員を獲得するために、入学式の当日からメンバー全員で頑張って勧誘活動に精を出したのだけれど、結局、あの年、サークルに入ってきた男子の一年生は江口慎之介だけだった。

 江口慎之介は経済学部の学生だった。彼はすらりと背が高く、手足がとても長く、アイドルグループの一員のように甘い顔立ちをしていた。明るくお茶目で、お喋りで愛嬌があり、いかにも甘えん坊のような顔つきをしていた。

 江口慎之介が初めてメンバーの前に姿を現した瞬間、部室に軽いざわめきが起きた。

 彼に向けられた女子学生たちの目には、憧れの芸能人を目にした時のような表情が浮かんでいた。『可愛い子ね』『すごくかっこいい』などと、とても嬉しそうな顔をして囁き合う者たちもいた。

 江口慎之介を初めて見た時には、わたしも『かっこいい子だな』と思った。『女にモテるんだろうな』とも思った。

 けれど、それだけだった。わたしの目に江口慎之介は、とても子供っぽい男に映った。

 四月生まれのわたしは、数日前に二十一歳になっていた。江口慎之介は二学年下だったが、三月の終わりの生まれの彼は十八歳になったばかりだったから、わたしとはほとんど三歳違いという計算だった。すでに大人の女だった二十一歳のわたしが、一ヶ月ほど前まで高校生だった少年を『子供っぽい』と感じたのは無理もないことだろうと思う。

 わたしたちの文芸サークルでは、お互いが書いた小説や戯曲やエッセイについて、いつもとても真剣に意見を交しあっていた。声を張り上げてやりあうことも少なくなく、会合の場にはいつも真面目な雰囲気が漂っていた。

 けれど、江口慎之介が入会してきてからは、すべてのことが大きく変わった。彼がふざけたり、おちゃらけたりしてばかりいたからだ。

 江口慎之介が馬鹿げたことを口にして議論を中断させるたびに、わたしはひどく苛立った。生真面目なわたしは、ふざける人間が好きになれないのだ。彼が耳にピアスを嵌めていることや、ペンダントや指輪を光らせていることも気に入らなかった。

 けれど、わたし以外の女子学生たちはそうは考えていないようで、江口慎之介の馬鹿馬鹿しいダジャレや冗談にいちいち反応し、甲高い声をあげて嬉しそうに笑っていた。

 どんな教育を受けてきたのかは知らないが、江口慎之介は女子の体に平気で手を触れていた。それだけでなく、女子学生の化粧やヘアスタイルや着ているものを褒めたり、『小池さんは脚が綺麗なんですね。見とれちゃいます』とか『青山さん、ミニスカートがすごくセクシーですね。さっき白いパンツがちらっと見えましたよ』とか『船越さんは胸が大きいんですね。ブラのサイズはFですか?』などと言ったりもした。

 それは完全なセクシャルハラスメントだった。もし、ほかの男子学生がそんなことを口にしたら、女たちの大ブーイングを受けるに違いなかった。

 けれど、不思議なことに、その言葉に気を悪くしている女はひとりもいないようだった。それどころか、彼女たちは江口慎之介の言葉を喜んでいるようにも見えた。

 わたしは何度も江口慎之介に注意をしようとした。実際、『馬鹿なお喋りのために集まってるわけじゃないのよ』『ふざけたいなら出て行って』などという言葉が何度も出かかった。

 けれど、そのたびにわたしは、喉元まで出かかった言葉を何とか抑え込んだ。

 繰り返すようだけれど、江口慎之介はわたしが好きなタイプの男とはかけ離れた存在だったのだ。どちらかと言えば、嫌いなタイプだったのだ。

 だから、彼から『平子さん、僕と付き合ってくれませんか』と言われた時は、言葉が出ないほどに驚いた。

第5回に続く

大石圭
1961年、東京生まれ。法政大学文学部卒。93年、『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作となる。他の著書に『アンダー・ユア・ベッド』『呪怨』『甘い鞭』等がある。
Twitter:@ObpcVsDh4d1y9Y6