帰ってこない奈々未に当てにならない警察。妹の不安は募り…/ 松岡圭祐『高校事変 II』⑥

文芸・カルチャー

公開日:2019/9/12

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第2弾! 新たな場所で高校生活を送るダークヒロイン・優莉結衣が日本社会の「闇」と再び対峙する…!

『高校事変 II』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 嘉島理恵の暮らす児童養護施設“きずな”は、ファミリータイプの戸建てだった。看板を除けば、どこにでもある少し古びた一軒家にしか見えない。

 葛飾区の柴又駅周辺は、小ぶりな家屋が密集するなか、狭い路地が入り組んでいる。駅から歩いて十五分、ひったくりや痴漢注意の看板が多く目につく区画に、施設は埋もれるように建つ。夜間は近隣住民に迷惑がかからぬよう、静寂を保つ規則だった。

 四方の壁に生活用品が堆く山積する、倉庫然としたリビングで、理恵はひとりテーブルについていた。年代ものの柱時計を見上げる。すでに午前零時をまわっていた。消灯時間をとっくにすぎている。

 施設に身を置く子供たちは、みな二階で眠っているが、理恵だけはリビングに居残りつづけた。職員たちも咎めようとしない。やむをえない状況だ、大人たちはきっとそう思っている。

 ふだん先生と呼ぶ児童指導員らは、みな玄関先に集合していた。四十代半ばの施設長、眼鏡にワイシャツ姿の猪原武志が、ぼそぼそといった。「ですから嘉島奈々未は、みんなが食事中のときにこっそり抜けだしたんです。妹にも声をかけなかったんですよ。こんなことは初めてです」

 戸口にたたずむ制服警察官はひとりだけだった。丸顔に困惑のいろが浮かぶ。「まあたしかに、未成年ではありますけども、高三で十八歳ですよね? 午後七時ごろいなくなったのなら、まだ五時間かそれくらい……」

 エプロンを身につけた女性職員、三十代後半の谷川裕子がじれったそうに申し立てた。「うちの規則で、無許可の夜間外出は禁止なんです。奈々未さんは真面目な子で、ルールを破ったりするはずはありません。なにかあったんですよ」

 理恵は悲嘆に暮れた。もっと大勢の警察官がきてくれると思った。姉がいなくなったと気づき、大人たちに報告すると、施設長の判断で一一〇番通報がなされた。ところがパトカーの一台すら急行しなかった。近所の交番からひとり、自転車で駆けつけたにすぎない。しかも対応はのらりくらりとしていた。

 警察官は手帳に目をおとしながら唸った。「いちおうですね、未成年者が数時間から半日ほど帰ってこないというだけじゃ、事件性を疑うのには少し早い気がしますんでね。でも放置できないってのは当然ですので、通報していただいたのは、まちがった判断ではありませんけど」

 痩身の男性職員、三十代の伊藤峰夫が、腰の引けた態度できいた。「それで、そのう、今後はどのようにすればいいでしょう」

 警察官は人差し指の爪で眉間を掻いた。「施設には、保護者がいても家庭に問題があって入所してる子や、もともと保護者のいない子がいると思いますが、この嘉島奈々未さんは……?」

「母親を亡くして、父親のほうは複雑な理由がありまして」

「そのお父さんの家に帰ってることは?」

 職員たちがいっせいに理恵を振りかえった。理恵は首を横に振ってみせた。

 施設長の猪原が警察官にいった。「奈々未さんの父親に電話してみたんですが、すでに解約しているらしく、番号が使われておりませんという自動メッセージのみで」

「音信不通なんですか」

「いえ。ずっとそうじゃなかったんですけどね。入所費用を分割払いしてくれていますし」

 ちがう。理恵のなかに悲痛な思いがこみあげた。父からの仕送りは嘘だ。姉は清掃のバイトにより、施設への支払いぶんを賄っていた。きょうも職場から連絡を受け、出勤したのはまちがいない。問題は姉がいったん施設に帰るふりをしてから、なにもいわずにでていったうえ、こんなに遅くまで連絡がないことだ。スマホも通じなくなっている。

 事実を打ち明けられないのは心苦しい。けれども職員が知れば、バイト禁止の規則を破った姉が叱責されてしまう。いまはただ姉の行方を警察に捜してほしかった。なのにこの警察官は、奈々未の内情ばかりほじくろうとしている。

 職員の谷川裕子が警察官に向き直った。「妹の理恵さんを置いたまま、奈々未さんがお父さんのもとに戻るなんて考えにくいです」

「とはいえ」警察官はため息をついた。「お父さんと連絡がつかないことには、どうなってるかわかりませんね」

「いまの保護者がわりは、わたしたち施設の人間なんです」

「じゃ奈々未さんの部屋もあるわけですよね? 私物を調べていただけませんか」

「私物……」

「まとまったお金や、洋服がなくなっている場合、家出の意思があったかもしれません」

 裕子がまた理恵を振りかえった。心当たりがあるかどうか目でたずねてくる。

 理恵はふたたび首を横に振った。実際、奈々未が持ちだしたのは手提げ袋ひとつだけだった。貯金も机の引き出しに残っていたし、着替えもタンスのなかに揃っている。家出だなんて考えられない。

 警察官は理恵を一瞥したが、直接にはなにもたずねてこなかった。「友達の家で遅くまで遊んでいただけってことも、よくありますけどね」

 伊藤が不服そうな顔になった。「担任の先生にも、同級生にも電話してみたんです。どこにも連絡ひとついれてないんですよ」

「そうですか」警察官は手持ち無沙汰げにボールペンをもてあそんだ。「それ以外の交友関係は? 出会い系サイトで知りあった人の自宅にいたりする場合もあるんですが」

「奈々未さんが無断でそんなことをするなんて、とても思えません」

「となると、ネットカフェか公園、コンビニあたりを捜すべきでしょうね。登下校に使う道沿いにそういう施設があると、ひとりになりたがっている少年少女が、油を売っていたりするもんです」

 職員らは互いに視線を交錯させた。裕子が深刻な面持ちでいった。「お巡りさんはご承知でしょうけど、この辺りにそんな施設は……。近所のコンビニですら、通学路とは逆方向ですし」

「困りましたね」警察官の目が、ふたたび理恵をとらえた。「妹さんもなにもご存じないとなると……。こちらの施設に、奈々未さんと同じ学校に通ってる子は?」

 なぜか大人たちの表情が一様に曇った。猪原が声をひそめていった。「いるにはいますけど、クラスもちがうし、学年もひとつ下です」

「親しくしていなかったんですか。部活動が一緒とか」

「ちがいます。あの子は帰宅部だし、入所して間もないので、誰とも打ち解けていなくて」猪原はいっそうの小声でささやいた。「優莉結衣ですよ」

「優莉って」警察官がにわかに納得したような顔になった。「ああ。でもそれなら……」

「いえ。おとなしく勉強熱心な子で、悪いつきあいもいっさいありません」

「奈々未さんとは、まったく関わりがなかったんですか」

「はい。絶対にないといいきれます。奈々未にかぎらず、誰に対しても心を開かない子なので」

「反抗的な態度というわけじゃないんですね? いつごろからこの施設に入所してるんですか」

「ごく最近です。弁護士さんや人権団体のかたが付き添われて、この近くの葛飾東高校に通うことになったから、受けいれてくれないかと」

「それで了承なさったんですか」

「ええ。本人にも会いましたし、問題ない子だとわかりましたので。断るのは可哀想でしょう」

 裕子が憂鬱そうにつぶやいた。「転校先もなかなかきまらなかったらしくて、苦労したみたいです。あちこちたらいまわしにされたあげく、やっと葛飾東に落ち着いたんですよ」

 警察官は裕子を見つめた。「弁護士や人権団体のほかに、なにか接触してきた者は……」

「公安警察の人たちが、ようすを見にお越しになりました。でもいちどきりです。優莉さんの生活態度は良好ですし、奈々未さんともなにもありませんでした」

 大人たちの態度は尋常ではなかった。言葉とは裏腹に、穏やかならぬ空気が充満していく。

 施設の子供たちは入れ替わりが激しい。年齢差も大きいため、親睦を深めあうこともない。もともと親がいなかったり、いても貧困や虐待により一緒に暮らせなかったり、家庭に問題を抱える子ばかりだ。食事をともにしようと、言葉はほとんど交わさない。名前すらおぼえていなかったりする。

 ただ姉と同じ制服の女子高生がひとりいるのは知っていた。前からいただろうかと疑問に思ったものの、やはり入所して間もないらしい。二階の部屋は細かく区切られていて、ふたりか三人ずつが同室するきまりだが、彼女のルームメイトは誰だろう。これまで意識したこともなかった。

 警察官が淡々といった。「いちおう通報があった旨、地域の警察で共有しておきますが、明朝になっても奈々未さんが戻らないということであれば、葛飾署のほうに届けてほしいんですが」

 伊藤は苛立たしげな態度をのぞかせた。「今夜のうちには捜索してもらえないんですか」

「もちろん警戒にはあたりますが、幼児に連れ去りの疑いがあった場合などとちがい、奈々未さんは十八歳なので……。真面目な子というお話はよくわかりましたが、捜索願、いまは行方不明者届といいますけど、それを受理したうえで、一般家出人か特異行方不明者かをですね、署のほうが判断するので」

 猪原が表情を険しくした。「一般家出人だと、積極的に捜索することもないんでしょう?」

「私からはなんとも……。署の判断なので」

 紛糾する大人たちを眺めながら、理恵は胸のうちに鈍重な痛みを抱えた。なにひとつ頼りにできない。でも誰も責められなかった。自分はどうなのだろう。非がないといえるのか。姉が清掃のバイトをしていた、そんな事実を告げる勇気すらないくせに。

第7回に続く

松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人