恋人の前ではご飯が食べられない……鬱屈した自意識の果てに見つけた、愛について教えてくれた絵本【読書日記7冊目】

文芸・カルチャー

2019/9/17

2019年8月某日

 大勢の人がいる飲み会を1時間で抜けて、スーパーで大量の総菜を買い込み、レンジで温めもしないままの冷えた筑前煮と唐揚げと餃子をバリバリ食べた。茶色いおかずはもれなくおいしい。さっきまでいた飲み会でもご飯が並んでいたけれど、肩をすぼめて枝豆を2~3本食べただけだ。もちろん1回に2合の白飯を食べても全然平気な私が枝豆3本でお腹がいっぱいになるわけもなく、いつもこうして飲み会を気持ち早く抜けて家に帰って爆食いしている。

 誰かと一緒にいるのは好きだけど、人前でご飯を食べるのは恥ずかしくて居心地が悪い。いわんや、好きな男の人とをや、だ。

 私は好きな男の人と一緒にご飯を食べるのが苦手だ。

 逆にご飯を一緒に食べても安心できる男の人とはセックスできない。

 非日常と暴力の最果てのようなことをした相手と日常と安心の最果てのような行為を平然と行えるような人は人格がふたつ以上あるか、非日常の行為をした事実ごと忘れてしまった記憶喪失者かのどちらかだと本気で思っているけれど、世の中の大半の人はそのどちらも器用にできるらしい。なんであんなにヤバいことをした後に普通の顔をして一緒にご飯を食べられるのか、明るいところで手を繋いで歩けるのか、全然理解できない。ヌードの被写体をやるよりずっとずっと露出している。ハレンチすぎて私には無理。

 ご飯を食べる瞬間は最も安心していたい日常で、セックスをするときは最もむき出しで攻撃的な非日常であってほしい。両者が地続きにあることを想像すると混乱してしまう。だからセックスの相手、すなわち私の言うところの好きな人と、ご飯を食べてホッとするタイプの好きな人は分けておきたい。だけど、世の中的にはそのどっちの要素も持ち合わせているのが“恋人”という認識で、だから私は恋人をつくるのが難しい。

 そういうわけで社会人になってから“恋人”と呼べる人はいなかったが、ただひとり、好きだけどご飯を一緒に食べてもなお好きなままでいられる人がいた。それが1年くらい前まで結婚していた人だった。

 その人とはTwitterで知り合った。初めて会った翌日から同棲のようなものが始まり、そこから2週間で正式に付き合うことになり、そこから2週間後に私からプロポーズをし、その1カ月後には婚姻届を提出していたので、もはや“恋人”にはカウントできないかもしれない。結婚生活も8カ月間と短く、挙式もしなければ指輪の交換もしていないのでバツイチを名乗るのも申し訳ないくらいだけれど、知り合ってから付き合い、結婚し、“家族”になっていく過程のめまぐるしくも愛おしい変容を今でも奇跡のように思っている。

 その結婚していた人と初めて会ったのは、代官山の和食の店かなんかだった。会うのは楽しみにしていたけれど、人と、ましてや男の人とご飯を食べるのが苦手な私は一刻も早く帰りたいと思いながら、ビールを頼みまくってガブガブ飲んで脳の解像度を下げた。男の人と一緒にいるときはどんなにお酒を飲もうが緊張は拭えないのが常なのだ。でも、お互いの家族の話かなんかをしていくうちに何だか居心地が良いなぁと思ったのを覚えている。この人を好きかもしれないというピリリとした緊張感と、一緒にご飯を食べても居心地が悪くない感じが同居するのは稀で、そのことに気づいた帰り際、私は怖くなって「もうあなたに会いたくないです」と伝えたのだった。代わりの利かない人ができてしまうのは困る。浅瀬のうちに引き返しておきたかった。

 それでも「わかりました」と言いながらも、押し切るようにまめに連絡をよこし、部屋に通ってきては良いでも悪いでもない空気のような存在感を纏った座敷わらしのようにニコニコと佇んで、毎日ご飯を一緒に食べるたびに居心地の良さを提供してくれる彼を信頼せざるを得なくなった。私はこの人のことが好きなのに、どうして一緒にご飯を食べることができるんだろうというのが不思議でならなかった。いつか誰かに結婚の決め手を聞かれたときは「好きだけど、生活もできる」と答えていたけれど、まさにそのひとことに凝縮される。

 本格的に生活をともにするようになってからは一緒にご飯を食べることが特別なことではなくなって、小食のフリをする必要もなくなり、私は結婚していた人の前でもご飯を2膳も3膳もおかわりするようになった。私の人生の中でも指折りに幸福な記憶のひとつだ。でも、そんなこともすっかり忘れていた。きっと思い出さないようにしていた。

 そんな幸せな記憶を呼び起こしてくれたのが、吉本ばななさんの『切なくそして幸せな、タピオカの夢』(幻冬舎)だ。Soupy Tangさんの温度のあるタッチで描かれた絵にばななさんの言葉が乗り、物語が紡がれていくこの本には、「食事をすること」と「家族になること」の愛おしい関係が書かれている。

 冒頭では、ばななさん自身が恋人に出会い、恋人が“家族”になり、恋人の家族も“家族”になっていく過程が書かれていて、“家族”になったと感じるきっかけのひとつは「食事の時間でもリラックスできること」とされている。すなわち一緒にリラックスした食事の時間を過ごせるということは、“家族”になっていくことそのものなのだ。

 私の言うところの好きな人への気持ちが、ばななさんが言うところの“恋”だとすると、ご飯を食べてホッとする人への気持ちは恐らく“愛”にあたって、ばななさんはそのどちらをも肯定してくれている。恋の魅力を十分に噛み締めたうえで、それでも“愛”のすばらしさについて触れた一節には何度も、じっくりと、首を縦に振った。

ある人が自分になじんでいって、セクシャルな気持ちは減ってしまってもあまりある別の親しみを感じられたら。なじんだ毛布のような「愛」を得たら。

時間というものがまるでおいしい漬物や、おなかに優しいヨーグルトみたいに私たちの関係に発酵をもたらして、人と人とが家族のようになる。その不思議こそが、恋以上に人生の大きな神秘ではないだろうか?

 それ以外にも、この本の中には食事と家族にまつわる愛の風景が丁寧に折りたたまれている。

 病気がちだったお母さんに代わって料理をつくってくれていたばななさんのお父さんの話、お子さんが“卒乳”して「自分がだれかの食べ物である」という時期を卒業したときの話、お子さんが好物だったトマトとガーリックスープの話と「たぴヤ」のタピオカの話。

 当然ながら私はその風景を見たことがない。見たことがないのに心がギュッと絞られて涙が出てくるのは、その風景の先に私の思い出の味が滲んでいるからだろう。そして、そのひとつが“夫婦ごっこ”をしていた約8カ月の歴史なのだ。すっかり忘れていた。きっと思い出さないようにしていた。その時間について胸を張って“愛”と呼ぶことはまだできないけれど、私の人生の中でも指折りに幸福な記憶を、この本は思い出させてくれたのだった。

“恋”が“愛”に変わっていく過程を肯定するには勇気がいる。それまであったセクシャルな気持ちが減っていくことに、私は今のところ耐えられる気がしない。それに、ご飯を食べてホッとする相手と約束を今交わしたとしても、飽き性の私はすぐに退屈してその約束をあっさり手折ってしまいそうだ。

 やっぱり好きな人とはご飯を一緒に食べたくないし、ご飯を一緒に食べてホッとする人とは性的な接触をしたくない。それでも、いつかまた、好きな人とご飯を食べてホッとする奇跡が起きると良いなと思っている。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka