99時間の残業。脳梗塞を疑ったのは妻だった――人手不足、増員を依頼し続けているのに…『残業禁止』⑦

文芸・カルチャー

2019/11/5

  

 残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?

 状況を説明しだした妻の話をしばらく成瀬はぼんやり聴いていたが、途中で電車の到着を知らせるアナウンスが流れ出した。成瀬は我に返った。

「今どちらですか。とにかく伺います」

 大田は、自宅がある浦安の隣、船橋市の病院に担ぎ込まれていた。どちらにしても関内からは十分過ぎるほど遠い。浅田を上回る一番の遠距離通勤者は大田だった。

 集中治療室に入った大田には会えず、その前の薄暗い廊下で成瀬は改めて妻の話を聞いた。小柄で大人しそうな妻だった。ピンク色の縁の眼鏡をかけていたが普段はコンタクトなのではないか、顔に馴染んでいなかった。

 大田が異変を起こしたのは8時半ごろ、風呂上がりだったらしい。寝間着になってリビングに戻ったところでうずくまった。めまいがすると言った。肩を貸してソファに座らせたら今度は右腕の痺れを訴えた。

 脳梗塞を疑ったのは妻だった。母方の祖父がやったそうだ。発症するところを見たわけでなく詳しい知識もなかったけれど、ネットで調べて間違いないと思い119番した。救急車が来た時には呂律も怪しくなりつつあった。

 妻はいったん大田だけを送り出したが、東京の実家から母親を呼んでいた。子供を預けて病院にやってきたのが10時半ごろ。医師の説明を受け、大田の実家と自分の親へ伝えてから、会社にもと気が付いた。

 大田は寝間着だったくせに救急車に乗る時スマホを握りしめていた。自分で電話するつもりだったのかもしれない。だが救急隊員の説明では、すぐしゃべれなくなったそうだ。左手だけでの操作も無理と分かったのだろう、「差し出してこられたので」と妻に返されたスマホは当然ロックがかかっていたが、試しに大田の誕生日を入れるとあっさり解除できた。

「所長さんのお名前は聞いてましたから、履歴を見まして──すみません」

「いや、謝っていただくことじゃありません。こちらがお礼を言わなければ。素晴らしい機転です」

 本心から成瀬は言った。大田のセキュリティー意識の低さは非難されてしかるべきだが、今あげつらってもしょうがない。

「容体はどうなんです」

「100パーセント脳梗塞だけれど、あとのことは何とも分からないとしかおっしゃってもらえなくて」

 淡々と話していた大田の妻の顔が歪んだ。

「申し訳ありません。このところむちゃくちゃに忙しくて。無理をさせたかもしれません」

 口にした直後に成瀬ははっとした。労災だと認めたようなものだ。会社が責任を問われるんじゃないか。ひょっとすると俺個人も上司として落ち度を指摘されないか。

 しかし妻は「疲れてるみたいで心配してたんです。顔を合わせる時間もほとんどなかったんですけど」と言ったものの、責めるそぶりは見せなかった。

 現場の状況を大田は説明していたのだろうか。妻も仕方ないと思ってくれたのか。今のところ考えが至らないだけか。本人につもりがなくても、外から焚き付けられたらどうなるか。

 いつの間にかそんな心配ばかりが頭を占めているのが情けなかったが、心配せざるを得ない世の中である。いずれにせよ成瀬にできるのは、会社との連絡役になることだけだった。

 船橋のカプセルホテルで何時間か睡眠をとった成瀬は、始発でいったん大田区の自宅に立ち寄り、着替えて横浜へ戻った。昨日のうちに大田が倒れたことだけはメールしておいた3人が事務所で成瀬を囲んだ。

「どうなるか分からないそうだ」

 浅田が目を見はった。砂場は唇を嚙んでいる。「心配ですね」という熊川のつぶやきが冷静過ぎるように聞こえたのは気のせいだろうか。

「まあ、医者は慎重な言い回ししかしないものだからな」

 あえて明るく成瀬は言った。朝礼では、大田がしばらく来られないので作業の立ち会いなどは他の現場監督が適宜代りをするとだけ、職人たちに伝えた。

 九時になるのを待って成瀬は本社に電話した。伊藤の声を聞くのも不快だったけれど、今回、伊藤はうって変わって素早い動きを見せた。報告を終えて本当にすぐ、また電話が鳴った。労務部の吉野という女だった。

「大田さん、先月は99時間の残業でしたね」

 甲高い声でしゃべる吉野の、最初のひと言がそれだった。

「本人がそう申告してるならそうでしょう」

 皮肉を利かせたつもりだが「成瀬さんの現場だったら、申告が実態と違うなんてことはないでしょう」とやりかえされた。

 さらに吉野は攻めかかる。

「できれば80時間以内にとお願いしていたはずですが」

「簡単じゃないんですよ、お分かりと思ってますけど。人がまったく足りない。増員してくれってずっと言ってたんです」

「それは工事部内で調整していただく問題です」

「労務さんからも口添えして下さい。大田がいつ出てくるにしても、それまで抜けたままで放っておかれたらまた誰か倒れますよ」

 脅し合いである。吉野は少し考えて「承っておきます」と答えた。無視されるよりマシだろうか。

 それからの1週間、現場監督たちは無我夢中で働いた。こんな時でも熊川が勤務スタイルを変えないのにある意味感嘆させられつつ成瀬自身先頭に立って大田のやっていた仕事をこなした。

 浅田、砂場の奮闘もめざましかった。特に浅田は、毎日の工程調整に加えてジャグジー問題でも成瀬をずいぶん助けてくれた。そのおかげで、竣工までの工程表が何とか形になった。

 といっても時間と人の不足を解決する魔法が見つかるはずはなく、ごまかしと無理を重ねただけで、どうせ日々変わってゆくことを思えば意味があるのか疑問だったが。

 ほっとさせられたと言えば、何といっても大田の命に別状がなく、後遺症も軽くて済みそうとの知らせだった。

 思えば風呂場に一人でいる時に発作を起こさなかったこと、妻が脳梗塞とすぐ気づいたことが幸いだった。血管に詰まった血の塊を溶かす薬は、時間が経つと使えなくなるのだが、大田の場合はよく効いた。でなければ大がかりな手術が必要になるところだった。

 集中治療室に3日いただけで大田は一般病棟に移った。若干言葉が出にくかったりするものの、話も歩くこともできるそうだ。

 だが大田の妻は、電話でそうした情報を伝えるものの、成瀬を含め、会社関係者の見舞いは必要ないと言った。

「みなさんお忙しいでしょうし」

「それはそうなんですが、我々も大田君の顔を見たいです。何とかやりくりつけて」

 妻は成瀬を遮った。

「お気持ちはありがたいのですが、当分、御遠慮願いたいと思います」

 大田を電話に出すことさえ拒んだ妻を、どうしてと砂場はいぶかしがった。

「まさか、ほんとはすごく悪いとか」

「そういうんじゃないと思う、多分」

「だったら電話くらいいいでしょう。大田さんも自分たちと話したくないんですかね。それとも奥さんのいいなりってことですか。携帯取り上げられてるんだとしたらひどいですよ」

「違うんだって」

 妻はやはり病気を仕事に結びつけているのだ。少なくとも今は、大田を仕事から引き離したい、仕事のことを考えさせたくないと考えるのは当然だ。仕事仲間にいい感情を抱けなくて不思議ではない。筋道をどこまで理解できるか別にして、子供たちだってそうだろう。

「だから大田も、家族の気持ちを汲まないわけにいかないんだよ」

 砂場はショックを受けながら納得した。

 大田の妻はおそらく正しい。面罵されなかったことを感謝しなければいけない。労災申請する気もないようだ。それこそ大田の意思である可能性は大きいし、会社からいくばくかの見舞金が出たことも関係しているかもしれなかったが。

 大田がちょっとやそっとで復帰できないことだけははっきりした。完治しても、現場には戻れないかもしれない。思惑は家族とまったく違うにしても、会社だってきつい仕事は危なっかしくてやらせられないだろう。

 成瀬は改めて事務所員の補充を願い出たが、伊藤も簡単には応じなかった。成瀬のところに一人回すならどこかから削る必要が出てくる。

「どこも苦しいんや」

「何とかやりくりできひんのか」

 のらりくらりと逃げ回っていた伊藤が突然態度を変えたのは数日後のことだ。労務から圧力がかかったのだろうか。何でもいい。成瀬は胸のうちで快哉を叫んだ。

「ご希望、かなえたるわ」

 ぶすりとした声で伊藤は言った。

「ただ大田クラスは出せへんで」

「分かってます」

「2、3日のうちに決められると思う」

「有難うございます」

 受話器を耳に押し付けたまま成瀬は二度、三度と頭を下げた。伊藤への腹立ちも忘れた。人手が増えることがそれだけ嬉しかった。

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