「嘘は女の化粧と同じ?」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』②

文芸・カルチャー

公開日:2019/11/10

『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』(イアム/KADOKAWA)

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!

第1章 603号室 枦山道(とやま・みち)

 “嘘をついたらいけません”

 そう言われ続けて育ってきたのに、社会に出たら、どれだけ上手に嘘がつけるか、どれだけ上手に演技できるかで評価も利益も変わってくる。

 それならいっそ、〝嘘は上手につきましょう〟って教育したほうがいいんじゃないの? って思うけれど、親も先生も政治家も表と裏を巧みに使い分けるから、シンプルなことがかえって複雑なことになっているんだ。

「ねぇ、私のこと、好き?」

「大好きだよ。すっげー可愛い、ミズキ」

「やだぁ、枦山さん。彼女にもおんなじこと言ってるくせに」

「彼女? 誰のこと?」

「アハハ。刺されちゃえ、ヤリチン」

 月曜日の朝、香水臭い女を家から笑顔で追い出し、そっちこそ遠恋の彼氏いるだろ、刺されちゃえ、とボヤきながらネクタイを締め、スーツの背広を羽織る。

 土曜日ならまだしも、日曜の夜に泊まられると翌朝がキツイ。案の定、いつもより支度の時間が押している。まぁでも、気楽なこの関係の存続には仕方のないことだ。

 ……そういえば、昨夜、火事? ボヤがあったんだったな。何階だったんだろ。

 支度を終え、玄関のドアを施錠しながら思い出す。キーホルダーの魚が半回転。

 あー、たしか、この部屋の女と話したな。わりと美人だったけど、幸薄そうっていうか、ツンケンしてそうっていうか……。

 601号室の前を通ってエレベーターに乗り、1階のボタンを押す。静かにおりる感覚が全身を包んだ。

 つーか、ふたりとも気付かずに寝てる、って最悪だな。酒飲んでテレビつけっぱなしで戯れて、その後爆睡していたからとはいえ。トイレに起きて、ドアのガチャガチャが聞こえなければ……。

 ん? ……ドア?

 そのとき、ひとつ下の5階で開いたエレベーターのドア。

 顔を上げた俺は、「ひっ」と言ってしまいそうになったのをかろうじて抑えた。なぜなら、真っ黒なパッツン前髪のお菊人形みたいな女が、分厚い眼鏡にマスク着用で、俯いて顔に影を作りながら立っていたからだ。

 服を見ると、一番上まできっちりボタンが留められたシャツに、ひざ下微妙な丈のグレーのおばさんスカート。なんかもう、〝彼氏いません〟よりも、〝彼氏いりません〟アピールだ。

「……おはようこざいます」

 一応同じ屋根の下の住人だということで、軽い会釈をしてみる。すると彼女は、「……ます」しか聞こえないような挨拶をぼそりと返してきた。そしてその声は、俺の記憶を微かに揺する。

「…………」

 奥に移動した俺の斜め前に立ち、閉めるボタンを押した彼女。俺は、そのうしろ姿を凝視する。

 思い出した。この黒髪サラサラのおかっぱ頭。昨夜、自分の家と間違えて俺の部屋の鍵穴をガチャガチャしてたヤツだ。

 そう見えるものの確信が持てなくて、そっと覗き込んで顔を見ようとする。

 もしかしたら、ぶつけたところが赤くなっていたり……。

 ???え?

 前髪のせいでおでこは見えなかったけれど、ビン底眼鏡の下から伝っているひと筋の涙が見えたところで、俺はパッと顔を戻した。

 ……泣いてる、この女。

 そう思ったときに1階についたエレベーター。ドアが開くと、彼女はツカツカと出ていった。俺はあえてゆっくり歩いて、エントランスの集合ポストの前を通り、短い階段をおりる。歩道に出たときにはすでに彼女の姿は見えず、どちらへ行ったのかもわからなかった。

 ……はや。……ていうか、こわっ。

「ん?」

 会社の方向へ一歩踏み出そうとすると、足もとになにかが落ちていることに気付いた。黒と紫の花柄のハンカチ。そういえば、さっきあの女が握っていたような。

「…………」

 迷いどころだった。女性とのベタな出会いのきっかけにもなりうるそのアイテム。でもそれは美人に限る話だ。ましてや、あんな賞味期限切れ女……。

 数秒間の親切心と面倒くささの葛藤の末、ため息とともにそれを拾う。そして、それでもなお、そのハンカチは香水か柔軟剤のいい匂いがするだろう、と勝手に決めつけていた。

「……生臭ぇ……」

 それは微妙に湿っていて、魚のような匂いがした。俺は、「えぇ?……」とうなだれた。

「枦山くん、取引先からの評判いいって部長に聞いたよ」

「いえいえ、相手方のほうが、みなさん心が広くていらっしゃるので、逆に助けられていますよ」

「ハハ、謙虚だねぇ、キミは。この前も、直属じゃないのに新人のミスをかばってお客さんに平謝りしたらしいし」

「お客様にとっては直属もなにも関係ないですから、当たり前のことです」

「社員全員がキミみたいならいいんだがねぇ」

 専務が豪快に笑い、「それじゃあ、近々メシにつきあえよ」と言って去っていく。会議が終わってみんながはけた室内を出て、自分もフロアへと向かった。

「あ、枦山さん、ちょうどよかった。大きな声では言えないんですが、今週末空いてます? 3対3なんですけど、アパレル関係の女の子たちと……」

「いいね。空けとく。店と時間決まったら教えて」

「了解っす! 枦山さん来ると盛り上がるから助かります。でも、彼女さん、大丈夫ですか?」

「あぁ、大丈夫大丈夫」

 後輩の須田が悪い笑顔を向けたのを横目にフロアに入り、「さぁ、仕事すっか」と言ってデスクに戻る。

 人間関係においての演技力、ときにそつなくさりげなく、ときに無駄におおげさに。幸いにも、俺にとってそれは苦ではない。女の化粧と同じで、嘘は嗜みであり装備であり、そして礼儀でもある。

 帰りは夜7時半だった。せめてもの運動不足解消にと徒歩で20分かけて帰る途中、マンションの近くにあるコンビニに寄って晩飯を買う。接待が多い営業職、できれば自炊してヘルシーで温かい晩飯を食いたいけれど、だるさのほうが勝ってしまう。今日も食べたいものが見つからないまま、7割の確率で選んでしまうチキン南蛮弁当と発泡酒を手に取った。

 28歳。ちらほら結婚するヤツが増えてくる中、30を過ぎてからでもいいだろうとは思いながらも、誰も待つ人のいないマンションの一室へ帰り、洗濯機を回したりトレーを洗ったりゴミの分別をしたりしていると、ふと思うことがある。身の回りの世話をしてくれて、邪魔をしなくて、文句もわがままも言わなくて、絶対に俺を裏切らない、そんな嫁ならもらってやってもいいと。

「……ふ」

 ……いねぇよ。

 そう心の中で自分にツッコんで鼻で笑い、マンションのエレベーターのボタンを押した。ランプを見ると、3階からおりてくるようだ。

「あ」

 そういえば、と思い、かばんの外ポケットに入れていた花柄のハンカチを取り出す。

 ……どうしたもんか。臭いし洗濯して返すべきか。いや、返すといってもまた偶然会うとも限らないし、だからといって管理会社に預けるほどのものでもないし、いっそエレベーターの中にこのまま置いていたほうが、目についていいのではなかろうか。

 そう思いながら、開いたエレベーターのドアに気付き、乗り込もうとする。

「わりぃ! ちょっとタンマ!」

 中に入って閉めるボタンを押そうとしたとき、エントランスのほうから大柄の男が走ってきて、ガッとドアに手をかけた。

「セーフ」

 ニッと笑って「いやぁ、すみません。早く帰ってサッカー見たくて」と言うその男は、ほんの少し固めた髪に浅黒い肌、ガタイがいいせいかスーツのよく似合う男だった。年上なのは明らか。30代半ばくらいだろうか。

「いえ、気がつかずにこちらこそすみません」

 乗り込んで閉めるボタンを押した彼にそう返して、俺はまた手に持ったままだったハンカチに目を戻す。

「あれ?」

 男の声に顔を上げると、彼は俺の手元を見ていた。花柄のいかにも女ものというハンカチだということもあり、慌てて「これは……」と説明しようとすると、

「俺の知り合いもおんなじもん持ってるんですよ。そいつもこのマンションで」

 と、顎に手をあてながら話しだす。

 俺はその言葉に目を見開いて、

「あっ、これ落とし物なんですよ。エントランス近くに落ちてて」

 と、差し出すように見せる。

「あー、じゃあ多分間違いねぇな」

 男がそう言ったとき、エレベーターのドアが開いて6階に着いた。そして、同時におりようとする俺とその男。

「あれ? 6階ですか?」

 と聞くと、

「あぁ、奇遇ですね。俺はこの階の端っこ、607」

 と言いながら、先におりてと促される。俺は廊下に出て彼がおりるのを待ち、

「俺は603です」

 と言った。

 偶然は重なるもんだと思いながら、さっきの会話を戻して「じゃあ、これを彼女に返しておいてくれませんか?」と話そうとする。……けれど、それより先に、

「そいつ、そのハンカチのヤツ、俺の会社の後輩なんだけど、ハハ、今日会ったらおでこに正方形の絆創膏してて。ほら、昨晩ボヤ騒ぎがあったじゃないっすか。なんかそのときに慌ててできた傷らしく、血が出たみたいで。バタバタして壁にでもぶつけたんじゃねーのかな」

 と、思い出し笑いをしながら話しだすその男。

「…………」

 俺は準備していた言葉を瞬時に引っこめた。

 ……〝血が出た〟?

 サー……とこっちの血の気が引き、遅れて罪悪感がやってくる。朝は俯いていたし前髪がパッツンで見えなかったけれど、やはり傷が……曲がりなりにも女性の顔に……。

「……すみませんが」

「え?」

「ハンカチ返しに行くので、何号室か知っていたら……」

 いや、プライバシー、プライバシー。

「いえ、すみません、1階のエントランスに彼女を呼び出してもらってもいいですか?」

<第3回に続く>

連載継続中の第3章以降はコチラ

イアム●小説投稿サイト「エブリスタ」で圧倒的な人気をほこるWEB恋愛小説の女王。主な著書に『失恋未遂』1~5巻(高宮ニカ作画/双葉社ジュールコミックス)、『コーヒーに角砂糖の男』(小学館文庫)、麻沢奏名義で『いつかのラブレターを、きみにもう一度』『放課後』三部作、『ウソツキチョコレート』(以上スターツ出版文庫)、『あの日の花火を君ともう一度』『僕の呪われた恋は君に届かない』(以上双葉文庫)など。 エブリスタにて『6階の厄介な住人たち』連載中。