菊池寛は夜遊びを暴露され、怒って出版社を襲撃/『文豪どうかしてる逸話集』⑦

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/15

菊池寛、友人の罪を被って第一高等学校を退学になる。(「マント盗難事件」)

 第一高等学校の寄宿舎時代、菊池の友人の佐野という男がある女性と食事に行くことになり、一高のステータスであるマントを着て行きたいが、マントをとっくに質に入れてしまっていた佐野は、あろうことか他人のマントを無断で持ち出してしまう。

 さらに、金のなかった佐野はこのマントを持ち主に返さず、「質に入れてきてくれ」と菊池に頼み、なにも知らず言われた通りにマントを質に入れた菊池は、マントの持ち主が盗難届を出したため学校から調べを受けることに。

「退学になったら親に申し訳がたたない」と佐野に泣きつかれ、「すべて自分がやった」と申し出る菊池。校長の新渡戸(にとべ)稲造は菊池の言葉を信じなかったが、頑(かたく)なに真相を言わない菊池は、結局退学処分になってしまった。

 その後、寄宿舎も追い出されて路頭に迷っていたところを、友人の父親である十五銀行副頭取の成瀬成恭(まさやす)がこの話を聞き、「彼をここで腐らせてはいけない」と菊池を自宅に引き取り援助することになったが、「菊池はズボラで風呂に入らない」と聞いていた成瀬の奥さんに、「毎日お風呂に入ること」とひとつだけ条件をつけられた。

「来月にもやめるかもしれない」と、菊池寛が気まぐれに出した雑誌、100年続く。

 菊池寛が35歳の時に創刊した雑誌「文藝春秋」は、よその文芸雑誌の値段が1冊80銭~1円の時代に1冊10銭と破格の安さなうえに、菊池の人脈を余すところなく発揮し、当時売れっ子作家だった芥川龍之介をはじめ、川端康成や直木三十五など気鋭の作家に寄稿させた創刊号3000部はまたたく間に売り切れ。その後も売り上げを順調に伸ばし、「特別創作号」と銘打った号は1万1000部の売り上げとなった。

 一気に超人気雑誌となった「文藝春秋」は、社員を増やすべく公募を告知すると、なんと700名を超える応募があり、菊池は「麹町・春日町・雑司ケ谷・八重洲、これらの地名の由来を答えよ」とだけ出題して、解答できた人間は全員採用した。

 社員が増えれば風紀も乱れる。いつも仕事中に将棋を指したり卓球をしたりして遊んでいた菊池を見習ってか、社員たちも毎日遊んでばっかり。さすがにこれはまずいと見かねた菊池は、「卓球・将棋禁止令」を出したが、この禁止令にいちばん苦しんだのも、いちばん最初に破ったのも菊池本人だった。

(出典) 菊池寛『話の屑籠』