「俺ら、友達になったんじゃなかった?」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』⑦

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/18

『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』(イアム/KADOKAWA)

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!

「今からですか?」と目を瞬かせたお菊だったけれど、日曜日にカレーをご馳走してくれたとき同様、拒否をすることはなく部屋に上げてくれた。相手を待たせて部屋を片付けに行かなくても大丈夫な、整然としていて清潔感のある部屋。殺風景とは違って暮らしやすさを感じさせるこの雰囲気に、俺はやはり、わけもなく安堵感を覚える。

「おー、今日も優雅に泳いでる」

 エレファントノーズフィッシュを覗き込むと、ブルーのライトに照らされている彼らが「また来たのか?」と目配せをしたような気がした。

「か……買ってきたもの、温めましょうか? それ」

「あー……うん。お願いしようかな」

「お酒も冷やしておきますね」

「うん、じゃあ、お願い」

 コンビニ袋を預かったお菊は、いそいそとキッチンで動き始める。わざわざ弁当をおかずとご飯で食器に分け、ラップをしてからレンジに入れ、その間、つまみを広い皿に移し、もともとあったのであろうクラッカーも足している。鍋も温めているけれど、あれはなんだろうか?

 俺はそれを横目で見た後で、また水槽に目を戻した。今度はグッピーたちが、「気が利くだろ、俺らのご主人は」と言ったような気がした。

 

「ごちそうさまでした」

 酒を飲むというのに、ご飯も、鍋の正体の味噌汁もしっかり平らげてしまった。

「ありがとう。なんか……めちゃくちゃ美味かったんだけど、汁」

「あぁ、た、たぶん、味噌とあげのおかげだと思います。九州の実家からよく送られてきて」

「へー、九州なんだ」

「……です」

「ふーん」

 わずかな沈黙の後、自分の家なのに所在なさげにソファーのほうに座っていたお菊は、立ち上がって俺の前の皿をいそいそと下げ、冷蔵庫から発泡酒を取り出す。

「飲んでいいですかっ?」

 俺が食べ終わるのを待っていたのか、鼻息を荒くして缶を握って訴える姿に思わず噴きだし、

「いいよ。ていうか、先に飲んでていいって言ったのに」

 と答える。

 お菊は真一文字の口で頭をふるふると振り、もう1本をテレビの前のローテーブルに置いた。

「枦山さんもどうぞ、ここで」

「え? いいの? その特等席」

「私はそちらのテーブルでいただきますので」

 場所を交代しようと言うお菊に、立ち上がりながら、

「なんで?」

 と尋ねる。

「え? だって……」

「別々に飲むんだったら、すぐ上の階だし、自分ちに戻って飲むよ」

「だって魚を見に来たんですよね?」

「……まぁ、そうだけど」

 そうか。そうだった。たしかにそうはそうだけど。

「俺ら、友達になったんじゃなかった?」

 歩み寄って、彼女の眼鏡の奥の目を見ると、お菊は、はた、として、

「友達……」

 と呟いた。そして、徐々に?を緩めだし、口角が上がってしまうのを隠すように下唇を突き出す。……なんだ? その気持ち悪い顔。

「じゃ、じゃあ、はい」

 そう言ってソファーの左端に浅すぎるくらいちょこんと座ったお菊。このよくわからない生物に倣って俺も右端に座り、テーブルに置かれた発泡酒のタブを開ける。そのいい音を聞いて、お菊も持っていた缶を開けた。

「はい、乾杯」

「か……」

「だから、乾杯」

「……か、かんぱ、乾杯」

 4文字くらいさらっと言えよ、と思いつつ、俺らは缶をコツンと合わせた。そして、互いに長いひと口を飲んだ後で、ふー、とひと息つき、自然と水槽へと目をやる。エレファントノーズフィッシュもグッピーも、青い光をほのかに浴びて水草の隙間をゆっくりと泳いでいる。俺は背もたれに体重を預けて、再度大きく息を吐いた。

「……至福」

「……幸せ」

 独り言を呟いたのは、ほぼ同時だった。でも、俺らは別段そのことには触れなかった。

 無言のまま4口くらい飲んでから、沈黙に耐えかねたのか、お菊がテレビをつける。画面に映るのは、気難しい顔で意見を述べているニュース番組のコメンテーター。それからチャンネルをふたつほど替えてバラエティ番組に落ち着いたけれど、お菊はさほど見たい様子ではなく、

「どうぞ」

 と言って、俺にリモコンを差し出してきた。

「あ、そうだ。DVD見てもいい? 今から取ってくるから」

「DVD?」

「ミステリーだけど、一緒に見れる? けっこう評判良かったやつ借りて」

 受け取ったリモコンを揺らしてタイトルを言うと、お菊は、

「それ、来週テレビでやるみたいなんで、録画予約してますけど」

 と言ってきた。「そうなの? でも、それなら今見てもよくない? ノーカットだし」と押すと、「たしかに」と言って首をコクコク上下に振るお菊。

 結局俺は数分で上の階にDVDを取りに行き、ついでにラフな家着に着替えてきた。なんて楽なんだ、と思いながら。

 

 DVDを鑑賞し終えて時計を見ると、すでに0時だった。かなり面白く、エンドロールが流れだすと、

「ねえ、俺、ラスト10分でここまで度肝を抜かれたの、初めてかも」

 と、隣に座るお菊に興奮気味に声をかける。

「……あれ」

 でも、お菊は寝ていた。体育座りで、顔も腕もギュッと集めて丸まって。

「器用だな、おい」

 お菊、と続けようとして、また名前を聞きそびれていたことに気付く。いったいこの女の名前はなんなんだ? そして何歳なんだ?

 テーブルの上を見ると、俺の方に空き缶4本、お菊の方には2本。残ったわずかなつまみを口に運んで、俺はせめて片付けようとキッチンにつまみの皿と空き缶を運ぶ。シンクを見ると、俺の食べた皿やプラスチックトレーもきれいに洗われて乾かされていた。

 ……いつの間に。

 パサッという音に振り返ってソファーを見ると、お菊が体育座りのまま真横に倒れていた。「んん」と一瞬だけ眉間にしわを寄せて、またそのしわが伸びていく。

 俺はそこに戻って、斜めになっている眼鏡をそっと引き抜き、テーブルに置いた。そしてしゃがみこみ、彼女のサラサラの前髪を上へと上げてみる。おでこにはもう細いかさぶたもなく、傷もよく見ないとわからないくらいになっていた。

「……おーい」

 間抜けな寝顔、その半開きの口を見て、やっぱり唇の形がいいな、と思う。睫毛もけっこう濃くて、白い肌に映えている。あれ? 目を開けたときの眼鏡なしの顔はどんなだっただろうか。眼鏡を取って前髪を上げた寝顔は思いのほか可愛くて、よくわからなくなる。疲れているときの4本は侮れないということだけはわかった。

 再度「おーい」と肩を揺らすが、寝息は乱れず、代わりに口をモグモグ動かすお菊。夢でも見ているのだろう。

 ピチャン、と今度は現実の水槽から水を跳ねる音が聞こえた。見ても、魚たちは誰が跳ねたのかわからず、まるで知らんぷりをしているような顔に見えた。

 

「うひゃー」というコントみたいな叫び声で、俺は目を覚ました。一瞬ここがどこなのかわからなくなったけれど、隣でのけぞっているお菊を見て、あぁ、と思い出す。

 起こしても起きなかった。そして、部屋を出ようにも鍵の在りかがわからなかった。そして、超絶に眠かった。以上をもって、彼女に毛布をかけて俺も隣で座りながら眠るに至っていた。

「なんで、も、毛布……」

「あぁ、ごめん。悪いと思ったんだけど、抱きかかえて寝室へ連れていくよりは、毛布をかけたほうがいいかと思って」

「い、いえ、そうじゃなくて、なん、なんで一緒に毛布に入って……」

「え? ……あぁ、ホントだ。寒くて無意識に入ってた」

 お菊だけにかけたはずが、なぜか自分の膝の上にも毛布があった。

「ごめんね」

 そう言って目を合わせると、お菊はこわばらせた顔をまたタコみたいに真っ赤にして、口を開けたり閉じたりしている。目もパチパチさせて、前髪も乱れていて、昨夜からスッピンだったのに、眼鏡がないだけでそのあどけなさが増した気がする。やはり以前見たときよりも可愛く見えるのは、期待が最初からないからか、見慣れたからか、まだ酒が残っているからか。

「帰るね。ありがとう」

 立ち上がって伸びをしながら掛け時計を見ると、早朝5時。まだ眠い。自分の部屋で寝直そう。

「い、いえ、こち、こちらこそ」

 そう返して、ようやく落ち着いてきたお菊は、細めた目で眼鏡を探し、テーブルの上に見つけたそれを装着する。

「あっ、あの」

「ん?」

「い……いえ」

「なに? 言ってよ」

 DVDのケースを手に持って玄関に向かおうとしていた俺は、お菊のなにか言いたげな様子に足を止める。

「いえ、その、とも、友達の距離感て、よくわからなくて、あの、なにか失礼があったら、言ってほしいというか」

「友達いないの?」

「は……はい」

「職場とかにも?」

「私は……その……空気担当でして」

「なにそれ」

「大丈夫ですか? 私、ちゃんと友達できてますか?」

 必死な様子に、思わず噴きだしてしまった。なんなんだろう、そのセリフは。

「うん」

 そう言って、ポケットから自宅の鍵を取り出す。そして、お菊と色違いのはこフグキーホルダーを見せた。

「えらく気も合うみたいだし」

「…………」

 一瞬驚いた顔をしたお菊は、次の瞬間、ふっと破顔した。ありえない方向へ直角についている彼女の前髪の寝癖が揺れて、それを見た俺も笑ってしまった。

「じゃーね」

「じゃあ、お気をつけて」

「気をつけるもなにも、上だけど」

 立てかけていた傘を取り、お菊の部屋を後にして、マンションの階段をのぼる。ほのかに白み始めた空を見て、今日は晴れだと思った。

 普通なら、女友達でも同じ毛布で寝るとかありえない。後になってなぜかおかしくなり、口元を緩める。お菊のことを、完全に女カテゴリーから除外しているからなのかもしれない。

 そして、あの部屋はやはり居心地がいいと再確信した。こんなことは、貴重だ。

〝友達の距離感〟

 さっきお菊が言っていた言葉が頭の中を泳いだけれど、俺は深く考えないことにした。

<第8回に続く>

連載継続中の第3章以降はコチラ

イアム●小説投稿サイト「エブリスタ」で圧倒的な人気をほこるWEB恋愛小説の女王。主な著書に『失恋未遂』1~5巻(高宮ニカ作画/双葉社ジュールコミックス)、『コーヒーに角砂糖の男』(小学館文庫)、麻沢奏名義で『いつかのラブレターを、きみにもう一度』『放課後』三部作、『ウソツキチョコレート』(以上スターツ出版文庫)、『あの日の花火を君ともう一度』『僕の呪われた恋は君に届かない』(以上双葉文庫)など。 エブリスタにて『6階の厄介な住人たち』連載中。