「いや、好意はある。それが、恋愛感情ではないだけ」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』⑧

文芸・カルチャー

2019/11/15

『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』(イアム/KADOKAWA)

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!

「お客様、ひとつだけケースの中身がないのですが」

「え?」

 レンタルショップにDVDを返却しに行った俺は、店員の言葉に固まった。今日は土曜日、夕方の店内の人口密度は高い。

「返却日が本日までになっておりますので、夜1時までにご返却か、それ以降でしたら、朝10時までに返却ポストのほうにお願いいたします」

「……はあ」

 首を捻りながら踵を返すと、自動ドアを出たところでハッと思い至った。お菊の部屋のDVDプレーヤーの中に入れたまま、空のケースだけを持って帰ってきたのだということに。

「マジか……」

 この店は片道徒歩15分の場所とはいえ、2往復することを考えると面倒くささが勝る。今からお菊を訪ねて返してもらって、車で返却しに行くか。

 そう考えながら、俺はマンションへと向かった。

 けれども。

「……いない」

 マンションに着き、いくら503のインターホンを鳴らしても、うんともすんともしなかった。物音ひとつしないところを見ると、留守のようだ。1時間前もそうだったから時間をおいて再び来たのだけれど、やはり同じだった。腕時計の針は、7時半を指している。

「家は知ってても、電話番号は知らないしな」

 聞いておけばよかったと後悔するも後の祭り。また1時間後にでも訪ねよう。

「あ」

 そのとき、ひらめいたのは同じ6階の男。伊崎だったっけ? 607号室の、お菊の上司。

「番号知ってる人、いるじゃん」

 俺はそう呟いて、そちらも留守覚悟で訪ねることにした。

 

「おおっ、603!」

 一回のインターホンの呼び出しで勢いよくドアを開けた伊崎さんは、俺をまるで囚人のように呼び、「元気にしてた?」などと旧友のような口ぶりで聞いてきた。

「元気です。先日はありがとうございました。それで……すみませんが、えーっと……」

〝お菊の電話番号を教えてください〟と続けようとした口をつぐむ。まず名前を知らないこと、そして知らないってのに電話番号を聞き出そうとすること。怪しさ満載だ。

「えー……先日呼び出していただいた女性にまた電話をかけて、再度呼び出していただきたいのですが」

 ……言いなおした後で思った。結局この言い方も、ストーカーじみていて同じだと。

「あー、いいけど、なんで? キミ、奥野の家にも上がる仲なんだろ?」

「奥野?」

「そう、奥野塔子。魚の話で気が合って、家にも上げたって聞いたけど」

 情報処理に数秒かかった。まず、お菊の名前は奥野塔子というのだということ。そして、上司である彼に俺との話をしていること。

「電話番号はまだ交換してねーってことか。おいおい、そこ初歩的なとこだろ。忘れるなよな。てか、家知ってるんだから、直接家に行けばいいじゃねーか」

「インターホンを鳴らすんですが、出なくて……」

「そんなに急用?」

「昨夜見た……DVD、忘れてきたみたいで……返却日が……今日で……」

「ハハ。いいなー、一緒に見たのか。初々しくてニヤけるよ、おっさんは」

「…………」

 話しながら、違和感がどんどん増してくる。

 伊崎さんはこの前はなかった顎の無精ひげを撫でながら、前回呼び出してくれたとき同様、ニヤニヤと微笑んでいる。その顔を見て、俺はやはりなにか勘違いをされていると確信する。

「あの、彼女とは交際しているわけではないのですが」

「あぁ? まだなの? 男なんだし、家にまで上がってんなら、早くビシッと決めろよ。つーか、奥野も気付いてるぞ」

「は?」

 俺の驚いた顔を見て、伊崎さんはなぜか得意げな顔をしながら玄関の壁に寄りかかった。

「奥野に相談されて俺がアドバイスしてやったんだよ。まぁ、ここまで押されて気付かない女もいないだろうけど」

「な……なんて相談されて、なんてアドバイスしたんですか?」

「〝初めて男の人に『友達になろう』って言われて、家にも上げたんですけど、これってどういう状況なのかよくわからなくて〟って言ってきたから、〝そりゃー、お友達からよろしくお願いします、という名の交際の申し込みだ〟って」

「…………」

「〝だから、とりあえず嫌いじゃないなら、言葉どおりお友達から始めてみてもあり〟だと。そして〝最後の花は男に持たせろよ〟と」

 カカカカ、と笑う伊崎さんを見ながら、俺は思い出していた。お菊……いや、奥野塔子がやたらと俺を意識しだしたことを。

 開いた口が塞がらない俺を前に、伊崎さんは続ける。今度は顎をつまんで首を傾げながら。

「まぁ、でも、そうだな。キミのほうが利口かもな。奥野みたいなタイプは、徐々に詰めていくのが正解か。アイツ、今まで彼氏とかいたことあんのかな? 奥野の奥は、奥手の奥ってか。ハハ」

 伊崎さんは終始笑っているが、全然笑えない。

「まー、しかし、見る目あるな、青年よ。奥野は、社内でも頑張り屋で気が利いて、そしてそれを表に出さない、奥ゆかしいイイ女だ。ただ、人間関係に対しては控えめすぎて、女性社員たちとは打ち解けてないから、まぁ、相談にのってやってくれな」

 彼は壁から肩を離して、握手を求めてきた。俺は、流れでその握手を受けてしまった。

「……はあ」

 確実になにかを置き去りにしている。けれど、ここで彼女に好意がないと言うのは正解なのだろうか? いや、好意はある。それが、恋愛感情ではないというだけで。

「あ。伊崎さん、こんばんはー」

 彼に説明をするか否かと考えていると、エレベーターのほうから女の子の明るい声がした。肩ほどの栗色の髪はパーマがかかっていて、薄ピンクのブラウスに花柄のスカートがよく似合っている。清楚な華やかさをまとっている彼女は、とても若く見えた。

「おう、穂乃ちゃん。今、帰り?」

「はい。バイトでした」

「そうだ、この人、穂乃ちゃんちの隣だよ。603」

 すぐ近くまで来た穂乃ちゃんとやら。伊崎さんと彼女のつながりを、同じフロアだということ以外で探そうと頭の中で試みていた俺は、急に話のベクトルが向けられたことにハッとする。彼女も一瞬驚いた顔をして、

「え? そうなんですか? はじめまして。605号室の野瀬川 穂乃、20歳で大学2年生です。よろしくお願いします」

 と、ご丁寧に頭を下げた。すごいな、こんなウエルカム感全開でにっこり自己紹介されたら、合コンなら負けなしだろう。というか、こんなめちゃくちゃ可愛い子が隣だったのか。ただ、隣とはいえ、いや、隣だからこそ、ベラベラと自分の素性を明かすのはいかがなものか。

「ねーねー、穂乃ちゃんはさー、つきあってないのに1対1で男が女の部屋に行くのって、どう思う?」

 ぎょっとした。身を乗り出して玄関から顔を出している伊崎さんが、当てつけのような質問を穂乃ちゃんに投げかける。きょとんとした穂乃ちゃんは、

「んー……と、私だったら、ないですね。男女の友達でも距離は保つべきだし、期待させちゃいけないと思います。もしくは、ちゃんと正式につきあうか」

 と、わりとまともな返答をした。

「だよねー」

 そう言って、うんうん、と頷き、俺に視線をやる伊崎さん。

「……なんすか?」

「いやぁ?」

 ……この男、タチが悪い。さっきから意見をコロコロ変えては、俺を試している。

 そう思ったとき、穂乃ちゃんが急になにかを思い出したかのように「あ」と言った。

「そうだ。えーっと、お隣さん……」

「枦山です」

「枦山さん、602号室には誰も住んでいませんよね?」

 人さし指を顎に当てて、首を傾げる穂乃ちゃん。これは、可愛い子にしか許されないポーズだ。

「うん。そのはずだけど」

「この前の夜、外から見上げたら、602号室の窓に人影が見えたんです。ゆらぁっ、て。ふふ、おばけかなぁ?」

「…………」

 なんで、ふふ、なんだ? 普通、怖いだろ。てか、怖いこと言うなよ。俺、おばけとかダメなんだから。

 そんなことは言えずに、

「へぇ」

 と返すと、

「あ! 俺も見たことある。カーテンがないから、人影くっきり見えてさ。しかも電気ついてないから怖いのなんのって。マジか! 穂乃ちゃんも見たってことは……」

 と乗っかり始める伊崎さん。

 いや、ちょっと待ってくれ。伊崎さんが言うと本当か嘘かわからない。つーか、キミたちは隣接してないからいいけど、俺は隣の部屋だしマジで怖いんだから。

 けれど、そんなことはおかまいなしに、穂乃ちゃんと伊崎さんは盛り上がっている。

「あの……」

 しばらく待った俺は、終わりそうのないおばけ話に割って入った。

「とりあえず、奥野さんに連絡していただけますか?」

<第9回に続く>

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