猫を追いかけてたどり着いた一軒のお店で見た、驚きの猫の姿/『お直し処猫庵』②

文芸・カルチャー

2019/12/7

悩める皆さま、猫店長にそのお悩みを打ち明けてみませんか? 日常のちょっとへこんだ出来事や小さな悩み、だけど自分にとっては大切なことを、猫店長が解決? 案外泣けると話題のちょっと不思議で幸せな物語集。

『お直し処猫庵 お困りの貴方へ肉球貸します』(尼野ゆたか:著、おぷうの兄さん(おぷうのきょうだい) :イラスト/KADOKAWA)

 ――中学生になったばかりの頃。(数少ない)幼馴染みたちとは別のクラスになり、しかし必殺のクラスメイトA戦法を編み出してもおらず、由奈の人生においてもトップクラスに悩み多かった時期の話だ。

 一人で寂しく下校していた由奈の前に、一匹の猫が現れた。模様はハチワレだったが、黒い部分はもう少し灰色がかっていたはずだ。

 猫は最初、由奈を見るなり「来ちゃイヤにゃ」と逃げてばかりだった。しかし、給食のパンを材料に交渉した結果、態度は「しかたないにゃー」と触らせてくれるほど軟化した。

『それでね、みんなアイドルの話ばっかりなの。わたしも詳しくならないとダメかなあ』

 民家の塀に乗った猫を撫でながら、由奈はその日の愚痴を語ったものだった。猫は明後日の方を向いてあくびをするばかりで、話を聞いている態度ではなかったが、それでも随分と癒やされた。幼馴染みたちは新しいクラスメイトとの付き合いで忙しそうだし、家族に相談すれば心配される。由奈にとって、猫だけが気兼ねなく話せる相手だったのだ。

 やがて、球技大会をきっかけに編み出した「戦法」で、由奈は心の平静を手に入れた。ほぼ同時に、猫は姿を消した。上手く過ごせてるよ、という報告はできなかった。

 球技大会は夏休みよりも前だったはずだから、猫と喋っていたのは短い間だった。けれど、由奈の心に強い印象を残した。それまで別に猫は好きでも嫌いでもなかった由奈だったが、以降熱烈な猫派になってしまったのだった――

 

 記憶の奔流に押し流されている由奈を一瞥すると、猫はぷいっと顔を逸らして去っていった。はっと我に返り、由奈はその後を追う。

 猫は、ちらちら由奈の方を振り返りながら歩く。逃げるでもなく、待つでもなく。近づけば離れ、離れれば立ち止まり。常に一定の距離を保ちながら、とことこ由奈の前を行く。

 どうにも追い付けそうにない。由奈はスマートフォンを構える。せめて、写真だけでも撮ろうと思ったのだ。

 猫が向かったのは、近所にある公園だった。由奈は反射的に警戒する。この公園では、余生を健康に過ごしたいタイプのお年寄りがやたら時間を掛けて散歩していたり、日常をSNSで共有したいタイプの大学生が空やら草やらを一眼レフで撮影していたりする。そういう人たちは割と気軽に話しかけてくるため、由奈にとっては大変厄介なのだ。

「――よし」

 公園の中に入るなり、由奈はにんまりとした。誰もいないのだ。安心して、猫撮影に勤しむことができる。

 猫は尻尾を立てて、なおも歩く。誰もいない公園を、我が物顔で見て回る。

 その間、由奈は幾度も写真を撮ったが、全て失敗だった。スクリーンショットを撮影することさえ下手な由奈であるからして、動き回る猫の姿を捉えることもまた困難なのだ。

 猫は公園を巡回すると、公園の端にある植え込みの陰へと移動した。これだけ広い空間があるのに、わざわざこんな隅っこに落ち着くあたりがいかにも猫らしい。

 猫は、そこでよっこらせと座り込んだ。足を折り畳んで体の下に敷く、いわゆる香箱座りだ。猫がリラックスしている時にするとされる姿勢である。チャンスだ。

 由奈は、植え込みに体が触れないよう気をつけながら(音がして逃げられてしまう)、猫へと近づいた。

「じっとしててね。動いちゃだめだよ」

 小声で言いながら、由奈は猫との距離を少しずつ詰める。深めの中腰で、腕を伸ばしてスマートフォンを向けるという姿勢のまま、徐々に接近する。

「あっ」

 ――これは、明らかに由奈の失敗だった。会話の苦手さにばかり意識が向きがちだが、由奈には他にも苦手なものがある。そう、運動だ。

 運動が苦手ということは、すなわち「自らの身体を操る能力が著しく低い」ということである。これは何も、ボールを投げたりダンスを踊ったりするのが不得意なだけに限らない。しゃがんだ状態で少しずつ移動する、みたいな動作も下手なのだ。

「いだっ」

 要するに、由奈はバランスを崩し前に向かって転んだ。両膝を突き、続いて両手を地面にどしゃっと投げ出す。完成したのは土下座の亜種みたいな姿勢だ。

 一方猫は、由奈の何百倍も素早い動きで立ち上がり、そのままぱっと駆けていった。

「まっ、待って」

 などと声を掛けて止まってくれるわけもない。あっという間に猫はいなくなり、後に残されたのは植え込みに向かって平伏する由奈だけであった。ああ、大失敗だ。

 哀しみに打ちひしがれながら、由奈は立ち上がる。膝はジーンズのおかげで無事だし、手もそう痛くはない。地面に叩き付けるような形になったスマートフォンも、問題なく動作している。画面にひびの類が入っているということもないし、大丈夫なようだ――

「ん?」

 ふとした、違和感。由奈は、改めてスマートフォンを見る。どうもいつもと違う。何かが足りない。何かが欠けている――

「――あっ」

 由奈は気づいた。ストラップだ。本体がない。紐と、紐の先端についた輪っか状の金具が、頼りなげにぶら下がっているだけである。

 慌てて辺りを見回すが、見つからない。最後にあったのは――多分、鞄から出した時だ。気が遠くなる。猫を追いかけているうちに落としたらしい。見つけられるのか。

 ――いや違う。地面を睨みつけながら、由奈は歩き始める。見つけられるか、見つけられないかではない。見つけるのだ。

「あったっ」

 拍子抜けするほどすぐに、本体は見つかった。先ほどよけた植え込みに、突き刺さっていたのだ。よかった。由奈は心底ほっとする。

 本体を手に取る。植え込みの横を通った時に引っ掛けたか何かして、金具が外れてしまったのだろう。

 本体側の金具は、アクセサリの留め金なんかによく使われているものだ。小さな突起がついていて、そこを押し下げると金具の一部が開いて別の金具を引っ掛けられるようになるアレである。

 由奈は早速、ぽちっと出ている箇所を押し下げた。すると金具の一部が――開かない。

「あれ?」

 何度やっても、金具は反応しない。散々押し下げ続けて、遂に由奈は諦めた。どうやら、金具は壊れてしまったようだ。

 

 散歩を続ける気力は、もう残っていなかった。

 由奈はうつむき、とぼとぼと歩く。ああ、無意義な休日だった。いや、無なら差し引きゼロだからまだいい。実際のところはマイナスだ。ストラップが壊れた分、心理的な面で大赤字なのである。

 前向きな解釈を試みてみよう。――素晴らしい! もうこれで、克哉にどうこう言われる心配はない。今度克哉と会ったときには、言えばいいのである。「ストラップ切れちゃった」と。「ちょうどいいから、もう付けるのやめたよ」と。よし、問題解決だ!

「――ううん」

 そう考えるのも嫌だった。一体どうしたのか。自分で自分が理解できない――

「ならぬ! ならぬぞ!」

 答えの出ない悩みと向き合う由奈の耳に、そんな叫びが飛び込んできた。低くかつ張りがある、男性の声だ。豊富な人生経験によって磨かれたことが窺える響きである。

 気になって、周囲を見回す。「ならぬ」などという、現代日本の路上でまず耳にすることのないような言い回しが、何とも気になったのだ。

 声の主らしき人は、見つからない。代わりに由奈の目を惹いたのが、一軒のお店だった。

 茶色の扉、その左側にショーウインドー。ショーウインドーの中には、ハンドメイドっぽい鞄やアクセサリ、春物の服などが陳列されている。取り立てて変わったお店ではない。

 では何が由奈の興味を引きつけたのかというと、店の前に置かれている看板だった。おしゃれなランチを出すカフェが使うような、立てるタイプのあれだ。

 看板には、店の名前が書かれていた。「猫庵」。そう、猫である。この文字だけで条件反射が起こる。更に言うと、庵の字のはねている部分が猫の尻尾になっていたりして、とても気が利いている。

 店の名前の下には、「なんでもお直しします」と書かれていた。「換毛期割」なるサービスもあるらしい。普通に考えると謎だが、猫好きからするとそこもときめきポイント――いや、待てよ。なんでも、お直し?

 由奈は、鞄からストラップを取り出した。壊れてしまった金具を見つめる。「なんでも」というのなら、こういうものも直してもらえるのだろうか。

「ええい、離せ!」

 考え込んでいると、また低音ボイスが響いてきた。

「離せ、離さぬか!」

 店の中からだ。爆音で時代劇でも観ているのだろうか。それとも、戦国時代からタイムスリップしてきた侍が現代人と鉢合わせして大騒ぎにでもなっているのか。

 自分の想像に、由奈は思わず苦笑してしまう。そんな展開、今時漫画やラノベでも中々お目にかかれないだろう。

「このうつけが!」

 扉が開き、中から一匹の猫が出てきた。焦げ茶とも灰色とも付かないくすんだ色合いの毛に、黒の縞模様。いわゆるキジトラだ。顎の下、胸の辺りの毛がふさふさしているところは、メインクーンという猫っぽくもあった。

 瞳は、不思議な色をしている。金色とも茶色とも違う、夕日に照らされた海の水面のような色だ。

「もはやこれまで!」

 猫は、立っている。――そう、立っている。後ろ足で立ち上がり、二足歩行しているのだ。

<第3回に続く>