なんでこの人があたしの本当のママじゃないんだろう……『里奈の物語』⑥
公開日:2020/1/16
物置倉庫で育った姉妹(里奈と比奈)は、朝の訪れを待ちわびた。幾つもの暗闇を駆け抜けた先に、少女がみつけた希望とは―。ルポ『最貧困女子』著者が世に放つ、感涙の初小説。
アパートの前に停められた幸恵の車は、お客さんからお古でもらった真っ黒なセドリックで、通称グランツ。ドアを開けるといつも煙草と芳香剤の入り交じった不思議な香りがした。後部座席にはいつも紙くずゴミが散らばっていたけど、その真ん中が、比奈の特等席。その横が里奈の指定席。ふたりが乗り込むと、幸恵ねえはジッポーライターをカチンと鳴らして煙草に火をつけ、乱暴に車を発進させる。
幸恵の運転するグランツは、いつもタイヤがキュルキュル鳴っている。
「幸恵ねえさ、信号、赤だったべ」
「るせーな。伊田桐の信号は赤になってから5秒はセーフなんだよ」
窓の外に流れる景色。ジェットコースターばりの乱暴な運転に後部座席で左右に振られながら、里奈と比奈は楽しくて笑い声をあげる。
「で、何で男の子殴ったりしたんだがね?」
やかましい排気音に負けない大声を張り上げて幸恵が問う。
「だからなぐってないっちゅうの」
「里奈……」
幸恵がこうして声を低くして里奈を呼ぶのは、「冗談タイムはおしまい」の合図だ。
「あんね。アホの竹中たちが悪いんさね。竹中たちが恋子のこと泣かせたけ」
「恋子って、街区から通ってる子かい?」
「だがね。あのアホら恋子のこと小便チョチョビレンコフって言って泣かせたんさ」
「なんなんそれ?」
恋子は里奈の小学校のクラスで背が一番小さい女子で、2番目に小さな里奈よりもさらに頭半分小さくて瘦せっぽちな少女だった。どうにも陰気で寡黙で、話しかけても俯いて何を言っているのか返事が聞き取れない。地元の幼稚園には通っていなかった里奈だから恋子と初めて会ったのは小学校に入学してからだったが、ほかの子どもたちの雰囲気を見る感じでは、恋子は幼稚園の頃から周囲の子どもに仲間外れにされているようだった。
そんな恋子がなぜか里奈に声をかけてきたのは、入学式から1カ月以上経ってからのことだった。
恋子は誰と話すときもあまり相手の目を見ることができずに、常におびえたような態度の少女だったが、ある放課後、学校から走って帰ろうとする里奈の背中に追いすがって、息を切らしながらこう言ったのだ。
「あのね、あたしね。でっかい声出すと、なんでか一緒におしっこも出ちゃうの。あとクラスで男子が大きな声出すでしょ。それでもおしっこ出ちゃうの。でもわざとじゃないの」
震える声で真っ赤な顔で、里奈と目を合わさずにそれだけ言うと、恋子は走り去っていった。
なぜいきなり恋子がそんなことを言ってきたのか、里奈はしばらく悩むことになった。同級生たちが、何かみんなとは違う雰囲気の里奈に興味を示したのは入学直後だけですぐに興味を失い、むしろ何か近寄ったらヤバいみたいな扱いになった。里奈も里奈で積極的に同級生に慣れ合おうとはしなかったものだから、恋子と同じく、教室で孤立している感じはあった。
でも、友達がいない者同士で仲良くしたいということなら、なんでおしっこの話などするのだろう。しばらく悩んだ挙句、里奈がふと思いついたのは、恋子は里奈に自分と同じにおいを感じたのではないかということだった。
里奈は小学校に上がっても、ごくたまに軽い寝小便をすることがあった。恋子の告白後に意識してみると、確かにたまに恋子からは甘酸っぱいような乾いた尿のにおいがすることがある。
まさかあたしも? 思わず自らの身体のにおいチェックをしてしまう里奈なのだった。
恋子につけられた「小便チョチョビレンコフ」という謎のロシア系なあだ名は、おそらく恋子の失禁癖を知った男子らがつけたものなのだろう。
学校での昼休み、トイレに向かう恋子の背中を追い抜きざまにドンと突き飛ばし、「レンコフ~」とはやし立てて走っていく竹中たちを見た里奈は、何か無性に腹が立って彼らを追いかけ、背中からドロップキックをかましてしまった。勢いよく前に倒れ込んだ竹中少年は派手に顔面を擦りむいて、保健室送りに。
それが事件のあらましだった。
「そんじゃ里奈お前、ぶったんでもおっぺしたんでもなくって、蹴り飛ばしたのかよ?」
相変わらず乱暴な運転で赤信号に急停車した幸恵は後部座席の里奈を振り返り、呆れ声だ。
「ちょっと顎さ擦りむいたぐれえで、大げさなんだい」
不貞腐れたように言う里奈に手を伸ばした幸恵は、少し強引に片手で里奈を抱き寄せ、その髪の毛に鼻をうずめるようにして低い声で言うのだった。
「よくやった。次にそのアホの竹中が同じことやったら、遠慮しねえでボッコしてやんな」
そんな幸恵のことを、里奈は大好きだった。瘦せているのにちょっと汗っかきな幸恵の胸元の香りを存分に深呼吸すると、ほわっとした気持ちになって、里奈は思うのだ。
なんでこの人があたしの本当のママじゃないんだろう。そもそもママってなんだろう。里奈に実の母の記憶はない。もし本当のママがいたら、そのひとは幸恵ねえよりも優しくてあったかくてかっこいい人なんだろうか? だったとしても、きっとあたしは、幸恵ねえのほうが好きだな。
そんな里奈のもとに、その実の母が現れたのは、里奈が8歳、小学2年生の初秋のことだった。
母は、猛烈な嵐とともに現れた。