人を嫌いになってもいい! 表だって喧嘩していなければ合格点!/『NOを言える人になる』⑤

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公開日:2020/4/3

あなたから自由を奪うすべてにNOを言い、自分の人生を取り戻すときだ――。会社の同僚、上司、家族といった人間関係や社会に、どうNOを言うべきか。どうすれば、あなただけのルールで生きられるようになるか。生きづらさを抱えた多くの人々の生存戦略を、わかりやすくご紹介します!

『NOを言える人になる 他人のルールに縛られず、自分のルールで生きる方法』(鈴木裕介/アスコム)

ときには他人を嫌っても、他人の悪口を言ってもいい

 自分と他人との間にきちんと境界線をひいたり、ラインオーバーを繰り返す相手を「NO」の棚に分類したりする際、邪魔になるのが、「人を嫌いになってはいけない」「人を悪く言ってはいけない」「誰とでも仲良くしなければいけない」といった「道徳的な考え」だ。

 もちろん、人の欠点や至らないところばかりに目を向け、「あの人も嫌い」「この人も嫌い」と思ったり、四六時中誰かの悪口を言ったりするのはおすすめしない。

 これは何も、道徳的な観点から言っているわけではない。

 そういう生き方は、何よりも、あなた自身を幸せにしないからだ。

 人の欠点や至らないところばかり見ていると、他人への期待値がどんどん高くなり、常にイライラするし、心の中に不満や怒りがどんどんたまっていく。

 その状態が精神衛生上良くないのは、言うまでもない。

 また、そのような人の周りからは、どんどん人がいなくなる。

 欠点をあげつらい、悪口ばかり言っている人と、進んで仲良くしようという人は、なかなかいないだろう。

 でも僕は、「絶対に人を嫌いになってはいけない」「絶対に人を悪く言ってはいけない」「絶対に誰とでも仲良くしなければいけない」とも思わない。

 どうしても合わない人を、ときに嫌いになったり、悪口を言いたくなったりするのは、人として当たり前のことだからだ。

 人はそれぞれ、異なる考えや価値観を抱いている。

 違う人間である以上、家族、パートナー、親しい友人など、どんなに近い関係であっても、考えや価値観が100%一致することはまずありえないし、考えや価値観が完全に一致しない以上、人は他人の言動に、多かれ少なかれ違和感を覚えることになる。

 違和感は、心が「この人の考えや価値観は自分とは違う」と察知したときに鳴るアラームのようなものだ。

 その違和感が、自分にとって受け入れ可能な範囲のものであればいいが、受け入れられないものであれば、人は相手に苦手意識や不快感、嫌悪感を抱くことになる。

 そしてアラームが鳴ったときには、心や身体が「いったん立ち止まって、しっかり考えよう」というメッセージを発していると思った方がいい。

 違和感を自覚し、受け入れ、「自分がなぜ、どこに違和感を覚えたのか」をきちんと考えることは、自分や他人についてより深く理解する、大きなチャンスだ。

 その結果、「この人の考えや価値観の違いは許容範囲である」「もう少しこの人との関係を続けたい」と思ったなら、折り合いがつけられるよう努力すればいいし、「この人との違いはどうにも受け入れられない」「この人にはこれ以上近づきたくない」と思ったら、自分の感覚に自信をもって離れればいい。

 なお、後者の場合、「なぜ近づきたくないと思ったか」をきちんと言語化し、「仮説」として持っておくと、他の人間関係にも応用が利くようになる。

「人を見抜くのがうまい人」は、そういうことを丁寧にやり、自分の中に法則をため込んでいるのではないだろうか。

 たとえば、相手がさほど親しくもないうちから、あなたにとっては「余計なお世話」としか思えないお節介を焼いてきて、そこに違和感を覚えた場合、つきつめて考えることで、次のような結論に至るかもしれない。

「自分は急激に距離を詰められたり、親切の押し売りをされたりするのが嫌なのだ。そこに、自分の領域を侵される不快感や、恩着せがましさ、うっとおしさを感じるからだ」

「一見『いい人そう』であり、心身を傷つけてきたりするわけではないけれど、世の中には親切に見せかけた、こちらが拒否しづらく文句もいいづらい形で、じわじわと境界線を踏み越えてくる人がいる」

 こうした法則が蓄積されていくと、次に同じような人に遭遇したときに、最初からラインオーバーさせないよう、距離をとることも可能になる。

 ところが、「人を嫌いになってはいけない」「人を悪く言ってはいけない」「誰とでも仲良くしなければいけない」という道徳的な考えは、違和感についてきちんと考えることを邪魔する。

「どのような事情があろうと、人を嫌うこと、悪く言うことは『悪いこと』だ」という考えにとらわれていると、心は、違和感を覚えたこと自体をなかったことにしてしまうのだ。

 しかも、道徳的な考えにとらわれすぎていると、悪口を言ってしまったり人を嫌いになったりしたときに、「自分はなんて嫌な(ダメな)奴なんだろう」といった自己嫌悪に陥り、自己評価が下がってしまう可能性もある。

 また、僕は、「他人の悪口を言う人は信用できない」という言葉も、非常に精度が粗いと思っている。

 経験や法則が積み重なっていけば、嫌いになったり悪口を言ったりする前に、苦手な人と距離をとれるようになるかもしれない。

 しかし、まだその域に達していないのに、ただ「人を嫌ってはいけない」「悪口を言ってはいけない」と盲目的に思い込み、自分の心の中に芽生えた違和感に気づかないふりをして、相手のラインオーバーを許し、どんどんストレスをため込んでいくのは、自分に対して嘘をつくことであり、正しい境界線を育むのを阻害する。

 結局それは、誠実な人間関係を築くにもマイナスに作用してしまう。

 多少、悪口を言うくらいのほうが、少なくとも自分に対しては正直だし、むしろそちらの方が、自分に嘘をついて悪口を言わない人よりも健全かもしれない。

 ついでに言うと、「嘘をつかない奴は信頼できる」という言葉もやはり大ざっぱで、僕自身は「他人には多少嘘をついてもいいけれど、自分に嘘をつくのはよくない」と思っている。

 苦手な人に、面と向かって「苦手」「嫌い」と言うのは角が立つけど、「苦手である」「違和感を感じている」ということだけは、自分の中の事実としてはっきり認めよう。

 本当は苦手なのに「自分はあの人のことが苦手なんかじゃない」と思い込もうとすると、必ずどこかにひずみが生じる。

 自分の気持ちに蓋をしたツケは、自らの心身の不調になって必ず返ってくる。

 自分につく嘘のほうが、よほど不健康なのだ。

 僕たちは、子どもの頃から、家や学校で「みんなと仲良くしなければならない」と言われて育つため、ついつい「嫌いだけど、仲良くしなければ」と思ってしまいがちだが、それは子どもの世界の常識だ。

 大人の世界には「仲良くないけど、戦争もしない」という状態が存在しており、そういう状態が世の中の均衡を保っている。

 全然仲良くなくても、心の中で嫌っていても、多少悪口を言っても、表だって喧嘩していなければ、それだけで十分に合格点だ。

 そして、もし誰かのことを苦手だと思ったら、それが家族や恋人だったとしても、接する時間をいったん減らし、好ましい人たちとの人間関係の割合を増やし、自分の心と身体がどう反応するかを、じっくり感じてみよう。

 きっと健やかになっていくはずだ。

 相手の性格は変えられなくても、自分が関わる人間関係の割合は自由に変えられる。

 あなたのことを尊重しない相手から距離を取り、大事にしてくれる相手をより大切にすることが、自分自身を大事にすることにつながるのだ。

<第6回に続く>