農民からの落武者狩りでまさかの野垂れ死【明智光秀】/『残念な死に方事典』②

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/19

猛将と讃えられた男でも、最後はあっけなかった! 鎌倉時代~幕末までに登場する武士の死に方を、コミカルなイラストとともに辿ります。歴史的人物の最期を通じて日本史はもちろん、生き方も学べる1冊です。

『残念な死に方事典』(小和田哲男:監修/ワニブックス)

織豊時代
農民からの落ち武者狩りに遭い惨殺

明智光秀

死に方:落ち武者狩り

享年55(1528年?~1582年)

PROFILE
清和源氏の流れをくむ美濃土岐氏が出自とされ、戦国の覇者・織田信長の重臣に取り立てられる。幕府や公家など幅広い人脈あり、高い教養を持っていた。

信長討伐で京の制圧から一転して謀反人に

「――そ、それは真であるか?」

 本能寺で織田信長を討ち取って京を制圧し、よもや天下人にならんと気運が高まりかけていた光秀。次々と注進にくる家臣たちの信じがたい悪報に愕然とし、光秀は武運に見放されつつあることをおぼろげに悟るのだった。それでも光秀は事後を回想する。

 本能寺に攻め入って三日後、信長の居城である安土城へ進軍した。

 その四日後、安土から自身の居城である坂本を経由して京へと戻り、宮中に参内し、朝廷や有力な寺院に銀子を献納した。万事つつがなく進んでいたはず……だった。

 最大の誤算は、本能寺の変を正当化しようと毛利方に宛てて送った密書が、毛利に届かないばかりか、備中高松城の戦い(※1)に挑んでいた羽柴秀吉の手に渡ってしまったことである。しかも平定したはずの京では、反旗を翻した光秀こそが謀反人であるとして混乱が続き、頼みの綱ともいえる細川藤孝・忠興親子や筒井順慶らに出陣を要請するも、ことごとく断られた。そして信じがたいことに、中国攻めの最中であった秀吉は、ただちに毛利と和睦を結び、光秀を討つべくすでに軍を姫路へ引き返しているというではないか。

 主君の仇を取るための神がかり的な猛進に、光秀は言葉を失うしかなかった。

我が天命の行く末を予見していたとも

 本能寺での蜂起から十一日後。天王山の麓である山崎(※2)において、光秀軍と秀吉軍の戦いの火ぶたが切って落とされた。大義を掲げた秀吉のもとには、丹羽長秀、池田恒興、さらには光秀側であった中川清秀や高山右近までも馳せ参じた。短期間での呼びかけながらも、秀吉軍に集結した諸将の数は四万近く。対して光秀軍は一万余り。圧倒的な兵力の差を目の当たりにし、光秀の胸中に去来するのは本能寺へ向かう一週間前の五月二十八日のこと。愛宕山内の西坊威徳院において、「愛宕百韻」として有名な連歌会を催した。神仏を前に行うこの会には、戦勝祈願の意味も含まれていた。すでに光秀の心にはたしかな決断があり、その席上で一句を披露したのである。

 命運が切り替わったわずか数週間前のことを、あらためて振り返りながら、光秀は自軍を指揮して突撃を開始する。天正十年六月十三日(※3)、雨が降りしきる午後四時だった。

 いざ戦いがはじまると勝負は早かった。光秀軍の主戦力である斎藤利三隊とその三千の兵が崩壊すると、百戦錬磨の秀吉軍が戦局を一気に掌握。光秀は敗走するしか術がなかった。

 が、落ちゆく道半ばで光秀の天命は、あっけなく尽きてしまう。

 農民の落ち武者狩り(※4)に遭い、無残にも山野で野垂れ死んだのだ。信長を討って天下人となった十一日後のことであった。あまりに短いその治世は『三日天下』とも呼ばれる。

 ときはいま あめが下しる 五月かな

 最後となった連歌会で披露した明智光秀の一句。「とき」は光秀の名・土岐を表し、「あめ」は天下だと解釈されるこの句は、一か八かの大勝負に打って出る前の決意を表明しつつ、心の内で敗北を意識していたという一説がある。

※1 羽柴秀吉が毛利配下の清水宗治を城主とする備中国高松城を水攻めにした戦い。毛利側に向けた光秀の密使は、秀吉が備中に配置していた忍者によって捕縛
※2 現在の京都府長岡京市・京都府大山崎町の一帯
※3 西暦1582年7月2日
※4 農民が逃亡する武将を殺害する慣行。鎧や刀などを奪って売り払っていた

<第3回に続く>