戦場で家臣に置いてきぼりにされて… 冷酷で残忍な暴君の末路【龍造寺隆信】/『残念な死に方事典』④

文芸・カルチャー

2020/4/21

残念な死に方事典

監修:
出版社:
ワニブックス
発売日:

猛将と讃えられた男でも、最後はあっけなかった! 鎌倉時代~幕末までに登場する武士の死に方を、コミカルなイラストとともに辿ります。歴史的人物の最期を通じて日本史はもちろん、生き方も学べる1冊です。

『残念な死に方事典』(小和田哲男:監修/ワニブックス)

織豊時代
家臣に置いてきぼりにされて惨死

龍造寺隆信

死に方:討ち死に

享年56(1529年~1584年)

PROFILE
最盛期は肥前、筑前、筑後と九州の一大勢力となった戦国武将。隆信勢が有利とされた有馬・島津連合軍との「沖田畷の戦い」で死去。

謀略と裏切りを繰り返して九州三強に

 因果応報とは、戦国時代の九州で『肥前の熊(※1)』と怖れられた暴君、龍造寺隆信の生き方そのものだといえよう。

 冷酷で残忍。味方であっても疑わしき者は容赦なく処刑する、疑心暗鬼にかられやすい無慈悲な人物として知られた隆信。その極悪な人間性は五十六年の生涯を終えるまで変わることがなかった。そうした隆信の残虐性は十代の頃の経験が植え付けたといわれている。

 そもそも龍造寺家は戦国大名の少弐冬尚に仕える被官だったが、謀反の疑いをかけられ、主君に誅殺されてしまう。このため、隆信は曾祖父の家兼とともに筑後(※2)の蒲池鑑盛のもとへと逃げるも、翌年には蒲池家の力を借りて一族の恨みを晴らし、龍造寺家を復興させた。

 力には力で対抗し、謀略と裏切りを繰り返してでも、勝つことがすべて。

 隆信は心にそう刻み込み、やがて九州三強へとのし上がる。しかし、間もなく猛将としての才気は影を潜め、酒色に溺れるなかで人望を失っていく。

「我が気に入らぬことが、我がためになるものなり」

 これは義兄弟でつねに一緒に戦ってきた鍋島直茂が残した名言だ。そんな心配を察することなく、説教ばかりする直茂を疎んじる隆信に、義弟の想いが届くことはなかった。

因果応報といえる暴君の無残な末路

 天正十二年(※3)三月、島津・有馬連合軍を相手とする沖田畷の戦い(※4)が勃発する。

 隆信が率いる兵は約二万五千。対して敵方はわずか六千ほど。

「この勝負、もらったで。がはははは。勝利は我が軍にありよ!」

 戦の前から圧勝を確信する隆信だったが、堕落した生活で肥満化した体は馬に乗れないほどで、輿に揺られながらの出陣となった。この時も直茂は厳しく忠言する。

「島津は油断ならない相手ですぞ。どうか侮ることなく、肝に銘じてください」

 だが、傲慢不遜な隆信は、やはり義弟の心配する言葉を聞き入れようとはしなかった。

 それほど隆信は完全に見くびっていた。九州随一といわれる知謀の将、島津の実力を。

 戦局は一気に動いた。島津・有馬連合軍は負けたふりをして退却し、ぬかるんだ湿地帯に隆信の大軍を誘い入れ、片っ端から矢と鉄砲を撃ち込んでいったのだ。

 大軍の強みを封じられた奇襲攻撃になす術なく、混乱に陥った龍造寺の兵は総崩れとなる。隆信の輿の担ぎ手もまた皆が逃げ出していき、

「おい、こら、待て。お前ら、どこへ行く!」

と慌てて叫ぶも、家臣は誰一人として耳を貸すことなく姿を消していく。

 戦場のぬかるみへ輿とともに残された隆信は、あっという間に敵兵に囲まれてしまう。

「ズバッ!」。最後はあっけなく首を斬られ、絶命してしまった。

 謀略と裏切りを繰り返して九州三強へとのし上がった隆信の末路は、味方に裏切られ、戦場に置き去りにされてしまうという予想外な最期だった。

※1 現在の佐賀県
※2 現在の福岡県
※3 西暦1584年
※4 肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。「畷」は湿地帯の中の小道を意味する

<第5回に続く>

この記事で紹介した書籍ほか

残念な死に方事典

監修:
出版社:
ワニブックス
発売日:
ISBN:
9784847099021